最終章
最期のクラス会
はじめに
平成17年11月8日、9日の両日にわたり、第74期会最後のクラス会が開催された。場所は初日、広島プリンスホテル、二日目、江田島海上自衛隊第一術科学校大講堂においてであった。時あたかも、わが74期生徒が海軍兵学校を卒業してから60周年記念の年に当たり、多数の会員の輿望に応えた開催であった。この大会は、中央幹事会と現地期友の年余の努力が結実したものであった。
 |
大会受付風景 於広島プリンスホテル 永瀬四郎提供 |
参加者は、会員及び準会員とその家族、来賓、教官などあわせて509名にのぼる盛会であった。全国各地からの参加者の中には、家族に車椅子を押してもらっての参加も数組あった。遠くはカナダからもやってきた。
平成17年11月8日(火) 江鷹会第20回全国大会総会・懇親会
総会は16:15阿部一孝代表幹事の挨拶に始まる。
総会には中央幹事会から、会員の高齢化に伴い、期会の組織的活動を円滑に終息させるための重要案件が提案され、異議なく可決された。次のとおりである。
・全国幹事会を議決機関とする。
・江鷹会基金を中央幹事会の管理に移す。
・合理化により中央幹事の定数を半減する。
・期会の組織的活動を平成21年から25年までの間に終結させる。
・終結の1年以上前に所定手続きで決定する。
・次期中央幹事として堀江保雄代表幹事他、常勤4名、非常勤4名が選任され、監査人として2名が選任された。
総会は堀江次期代表幹事の挨拶で締めくくられ17:30終了した。
 |
全国大会風景 永瀬四郎撮影 |
懇親会は2階大宴会場「瀬戸内」にて18:00より始まった。冒頭、国歌斉唱の後、田村章大会実行委員長の挨拶があった。次に来賓として挨拶に立たれた74期指導官、丹下藹基少佐(59期)は、次のような軽妙な祝辞を述べて満場の喝采を博した。
”本日は第74期卒業60周年の記念式典にお招きをいただきまことに嬉しい。本日はこの記念すべき式典をお祝いして、わが残存クラスメートの半数を挙げて参加しました。すなわち、わがクラスは123名卒業しましたが、現在生き残りは4名であります。(爆笑。59期からは柚木誠之教官も出席された)。私は現在95歳であります。少々耄碌しましたが、何処といって不具合のところのない健康体です。これもひとえに兵学校の教育のおかげと感謝しております。この兵学校教育は、大したことはないとお思いかもしれませんが、勉強に於いても、日常生活に於いても厳しさがありました。皆さんはこの厳しさに耐えて今日があるわけです。戦後の混乱した社会の中で、皆さんはその厳しさを克服して、兵学校精神を持って、仕事に携わってこられました。皆さんそれぞれ成果を上げられたことは真に誇りうることと思います。皆さんはまだ壮年です。ますます元気に頑張ってください。
写真説明: 中央、丹下教官、その左、渡辺浩、教官の右、大谷宏雄。丹下教官は74期指導官であると同時に56分隊監事であった。小柄ながら精悍な容姿態度は、分隊員一同の憧れの的であった(写真は渡辺浩提供)。
懇親会は柚木教官の万歳三唱によって、20:00幕を閉じた。お元気で本大会に参加された柚木教官は、大会翌月、平成17年12月急逝された。謹んでご冥福を祈ります。(佐藤昇二記)
平成17年11月9日(水) フェリーによる海上移動
 |
いざ乗船 |
翌11月9日は05:30起床、06:00朝食、07:30より3隻のチャーター船に乗船開始というあわただしさであった。
出発はホテル桟橋から。終着点は勿論、江田内の第一術科学校の表桟橋である。
10年前の平成7年の卒業50周年大会では、この航路を高速艇で僅か30分で走破したが、今回はそういうわけにいかない。チャーター船は鈍足で、たっぷり1時間半は掛かった。そのかわり60数年前、漕ぎまわり、泳ぎまわった懐かしい我らの海,広島湾の景色を十分に堪能することができた。
天気は晴れて、波は穏やか、航海には絶好のコンディションである。カメラを首から下げた皆さんは、右舷に回り、左舷に回り、船首に走り、船尾に走り、撮影に忙しい。
 |
広島湾北部要図 |
 |
峠島を左舷にかわして一路江田島へ |
 |
津久茂水道へ 左、津久茂山 正面、真道山 右、西能美島 |
 |
新装成った第一術科学校学生館 背景は古鷹山 |
 |
表桟橋に到着 |
(この項の写真は小宮山玄二撮影) |
平成17年11月9日(水) 江田島大会 於第一術科学校大講堂
式典は10:30より、亡くなった期友の追悼行事から始まる。
・次期代表幹事堀江保雄追悼文朗読
追悼の辞
先の大東亜戦争で戦没され、またその後今日まで物故された
四百余名の兵学校第74期の諸兄に申し上げる。
第74期生は、卒業60周年に当たり、此処江田島に集合した。
昭和17年12月1日、井上校長より 「海軍兵学校生徒を命ず」
と申し渡されてから兵学校という名の 「道場」 において、一日も
早く海軍兵科将校として国の危急に役立つべしと、日夜勉学に
訓練に励んだものだった。加えて戦局の緊迫化から、即戦力化
の要請がたかまり、昭和19年3月、一号になってからは、艦船班、航空班の術科別教育が行われた。同年12月には、航空班の半数に当たる約300名が生徒のまま霞ヶ浦航空隊に派遣され、飛行学生の教育を受けることとなった。
この間、卒業を目前にして、江田島で空襲のため2名の戦死者の出たことは,本人の無念もさることながら、残念なことであった。
卒業後は、実施部隊や術科学校等に配置され、戦力の向上のため、血の滲むような訓練に励み、最期の決戦に備えていた。この間にも対空戦闘中、大淀や長鯨で4名が戦死し、回天、蛟龍、海龍及び飛行学生で、出撃を目指しての訓練中に、9名が殉職したことは、我がクラスの一死報国の魁として忘れることはできない。
然し、8月15日、終戦の詔勅が渙発され、大東亜戦争は終結した。我が国は、敗戦国として、廃墟と混乱の中から、再建の道を進むこととなった。当時20歳の我がクラスは、戦いに生き残った者の務めとして、兵学校で培われた能力を発揮し、謂れのない差別を克服して、夫々の道で我が国の再建のため全力をつくして奮闘した。戦後60年、我が国は世界第二位の経済大国に復興、発展した。また、自衛隊の創設に当たっては、百余名のクラスが参加し、その基幹となり、自衛隊の発展を支えてきた。
我がクラスは、先の大戦ではこれといった貢献はできなかったが、戦後の復興には多大の寄与をすることができたと自負するところである。そしてこの成果の陰には、あるいは職に殉じ、あるいは病に斃れた諸兄のあったことを決して忘れることはない。
また視点を変えると、本年は大東亜戦争終結60周年であると共に、日本海海戦百周年に当たる。日露戦争による東洋の小国日本の勝利は,被支配諸民族の自尊心を覚醒させた。また大東亜戦争による南東アジア地域の開放と、敗戦国日本の驚異的復興発展は、世界各地域の独立の動きを加速した。今や、国連の加盟国数は190を超えるまでになり、世界の政治、経済はこれら諸国の動向を無視しては決定できないものとなった。このように、西洋列強の植民地支配を終わらせ、新しい歴史の転換に参画することが出来たことは、諸兄と共に我々の誇りとするところである。
我々の卒業式は、江田島と霞ヶ浦に分かれて行われた。江田島でも千代田艦橋前で挙行されるという異例のものであった。それだけに、今、卒業60周年クラス会がこの大講堂で開催されたことに、深い感慨を覚える。今我々は、幽明境を異にしても、生死の別なく、クラス全員が此処に集まり、60年前に果たせなかった卒業式を行っている。
いざ共に、我が国の繁栄と永遠の彌栄をめざして邁進しよう。
平成17年11月9日
海軍兵学校第74期生代表 堀江保雄
・亡き期友に対し黙祷
・追悼軍歌合唱
・第一術科学校長 袴田忠夫海将補の挨拶
・海上自衛隊呉音楽隊演奏
式典は1145終了し、大食堂にて昼食、校内自由見学の後、名残りを惜しみつつ解散した。(佐藤昇二記)
 |
追悼の辞を奉読する堀江保雄 写真は永瀬四郎撮影
|
 |
江田島健児の歌合唱 写真は山内繁一提供 |
 |
鎮魂同期の桜 トランペット独奏 呉音楽隊 写真は永瀬四郎撮影 |
以上
あとがき
江鷹会ホームページの成立と構造
第一回ホームページ委員会
このほどホームページ委員会によって、第74期 (江鷹会) ホームページが完成した。 委員会のメンバーは次のとおりである。飯塚邦保、岡野幸郎、中村慶典、堀江保雄、山内繁一。
昨年 (平成18年) 7月、第一回委員会が開かれた。 この委員会での話し合いで、ホームページ作成の大体の方向が決まった。 次のとおりであった。
・特色のあるものを作る。
すでに71期から78期までのホームページが出揃って、わが期だけが出遅れてい
る状況では、他の期の二番煎じでない、特色のあるものが必要である。
・構造が簡単でアクセスの容易なものにする。
内容を細分し、精密で正確な記録を追及しすぎると、構造が複雑になって、パソコン
初心者や不慣れなものには、目的の項目を選び出すのが容易でない。これを避ける。
・わが期の兵学校採用試験の前後の一般情勢の叙述からホームページをスタートさせる。
これにより、わが期のホームページは、わが期の歴史を物語るという基本性格が
決まった。
ホームページの構成
わがホームページは、特殊記号を用いて 「メモ帳」 に原稿を入力し、これをインターネット画面にコピーする方法で作成した。これにはホームページ作成技術のうちのスタイルシートやフレーム方式を採用した。フレームは2列とし、左欄に目次を置き、右欄に本文を置いた。左欄の目次のうちの中項目
(色変わりの文字) をクリックすると、それに対応する項目が本文欄に現れるという仕組みである。
目次の各項目の表題が、本文の表題に一致しないものがある。たとえば、本文で 「霞ヶ浦航空隊派遣生徒に聯合艦隊司令長官訓示」 が、目次では 「派遣生徒に豊田長官訓示」
となる。これは、表題の字数が多すぎて、2行になると見難く、また見苦しくなるので、これを避けたものである。本文の表題自体、長すぎるので短縮形態を取った。正式には
「霞ヶ浦航空隊派遣生徒に対し豊田聯合艦隊司令長官訓示」 である。
画面の美観にはとくに留意した。このホームページは小なりといえども、歴史叙述である。内容にふさわしい表現形式とした。簡素で清潔をむねとし、高揚感を抑えて、急激な場面転換や、音楽のオートプレイを避けた。
本文の冒頭に代表幹事による序文とも言うべき 「はじめに」 を置いた。これによって、ホームページ作成の目的を明示するとともに、責任の所在を示した。次に
「江鷹会ニュース」 で、わが期の中央幹事会の最新の動きを示した。これに期友の訃報と最新の会員数を加えた。この 「江鷹会ニュース」 は月例中央幹事会開催の都度、最新のニュースに更新する。
このホームページの中核ともいうべきものは、軌跡その一 (海軍兵学校)、軌跡その二 (戦時中のわが期の活躍)、軌跡その三 (戦後の活躍) の3章である。この3章によって、わが期の採用試験以来現在までの歴史を概観した。
軌跡各章の作成方法
軌跡その一:
この部分は、わが期の兵学校生活を扱っている。制作者 (岡野) は, 自分史である 『私の昭和史』 を数年前からインターネットにアップロードしている。軌跡その一がカバーする時間的範囲は、私の自分史の
「戦争の時代」ー「海軍兵学校」 のそれと重なる。軌跡その一の構成と内容の一部が、私の自分史と重複するのはそのためである。私は平均的74期生徒であると自認している。私が制作した兵学校生活の諸相は、多くの期友にとって違和感のないものであることを確信する。
軌跡その二:
兵学校を卒業してからの戦時配置は、人それぞれに異なる。この章は、戦時中の各配置に属した期友に語ってもらうことにした。その思い出話は、原則としてクラス会の機関誌
『江鷹 卒業40周年記念誌』 と 『江鷹 卒業50周年記念誌』 に掲載された手記から採った。採録した手記は、次の条件を充たすものから選んだ。
・取上げられた話題がネービー経験のない一般の人にも興味があること
・話題が具体的で、当時の状況を活き活きと再現したものであること
この条件に合う手記は多数あったが、ホームページ全体の容量と各部門のバランスを考えて、各部門ごとに1ないし2名に絞らざるを得なかった。また、採録した手記は、複数のエピソードを一つに絞ったり、長すぎるセンテンスを短くしたりと制作者の恣意によって、無断で修正した。この機会を借りてお詫びを申し上げる。
手記に副えた顔写真は、原則として 『江鷹 卒業40周年記念誌』 から採った。同記念誌の写真の画質が極端に悪いものについては、ご本人提出の写真によった。
軌跡その三:
この章は 「終戦処理」 と 「平和の時代の活躍」 の2項目からなる。「終戦処理」 の記述方法は、上述、軌跡その二の方法と全く同じである。「平和の時代の活躍」
については、3自衛隊を選んで、その先任者に手記をお願いした。わが期友の平和の時代の活躍は、自衛隊のみならず、日本産業の各部門に及ぶ。しかし、業種別に代表者を選んで、手記を書いてもらうのは、実際的には難しいことがわかった。結局、平和の時代の活躍は、組織としてまとまっている自衛隊における活躍に絞った。
最期のクラス会
最期のクラス会は、その前夜祭ともいうべき平成17年11月8日の懇親会の記述から始めた、ここに、わが74期の指導官、丹下藹基教官の挨拶を加えた。丹下教官は95歳の高齢を押して出席されたのである。
翌日の江田島までの舟行は、写真にすべてを物語らせる方法をとった。ここ広島湾北部は、生徒時代、宮島遠漕に、遠泳に、あるいは週末の巡航にと我らが海、我らが庭のごとく馴染んだ思い出の海である。
大講堂における記念祭では、堀江代表の追悼の辞の全文を掲げた。また、再び訪れることもない広い講堂のたたずまいを記録する写真を挿入した。
資料集の作成方針
資料集は、軌跡その一からその三までの、歴史叙述の本流に入りきれないが、脱落させるには惜しいものから拾い上げた。いわば本文を補強するものである。なかに、豊田聯合艦隊司令長官の、霞空派遣航空班に対する訓示がある。これは、彼ら派遣生徒に対する海軍首脳部の期待の大きさを示すものであろう。
アナポリス、ダートマス両兵学校への訪問記は、両校の現状を知る貴重な資料である。
軍歌集などによって世上に流布されている 「江田島健児の歌」 は、誤植が多いばかりでなく、読みにも出鱈目のものが散見される。ここに誤植のない決定版を残しておくことにする。
最期の 「富生徒との一日」 は 『芦田均日記』 (岩波書店) から借用した。芦田均氏は政治家、外交官として有名であったばかりでなく、文筆家としても高い評価を得た人であった。
写真集
俵写真館と永瀬四郎から提供されたこの写真集は、われわれの母校に対するノスタルジーと誇りの感情を誘うものである。一方ではまた、これは観光写真集としての性格を持つ。これから江田島を訪問される一般の人たちへの案内となろう。
外部リンク
外部の如何なるホームページへリンクを張るかは、ホームページ制作者の見識を示すものである。
ここに集めたホームページの隠れたキーワードは 「海軍兵学校」 である。わがホームページはわが74期のすべてを語るものではない。況してや日本海軍の百科事典を目指すものでもない。膨大な日本海軍の組織の中の、一セクションであった兵学校の、そのまた一部であったわが期の歴史の概説を試みたものに過ぎない。選定に当たっては、ここにアクセスする人の興味と関心を拡散させないことに重点をおいた。また、この外部リンクのページの美観にも留意した。
外部リンク集の最期に 「軍歌演習」 (今田知之編) と 「海軍ラッパ曲集」 を置いた。単調で高揚感に乏しいわがホームページに、適度のアクセントをつけるものと思う。 (H19.6.26 岡野幸郎記)
平成19年4月以降に追加・更新した記事
1.軌跡その一:
兵学校生活の諸相ー年中行事ー乗艦実習
・瀬戸大橋上から俯瞰した来島海峡の写真
2.軌跡その二:
戦時配置ー艦艇
・航走中の戦艦大和の写真
・潜水母艦長鯨の戦い 大野義夫
・重巡洋艦利根の最期 丸尾義之
蛟龍
・情島付近地図及び写真
・小野雄市の殉職 伴野丈夫
3.軌跡その三の後;
・最終章
最期のクラス会 佐藤昇二
(冒頭の 「大会受付風景」 の写真はビデオ画面をデジカメで撮った
もので画質が悪い。カメラで撮影したものをお持ちの方は提供して
ください。差し替えます)。
・あとがき
4.資料集:
・航空班生徒の一部霞ヶ浦航空隊派遣に際し校長訓示 小松輝久
・霞ヶ浦航空隊派遣生徒に対し聯合艦隊司令長官訓示 豊田副武
・第74期卒業に際し校長訓示 栗田健男
・アナポリス海軍兵学校訪問記 景山崇人
・ダートマス海軍兵学校訪問記 吉高 諄
・誇りとする遺児育英基金
次へ トップページへ