74期の軌跡 その一

海軍兵学校

現海上自衛隊第一術科学校 旧海軍兵学校全景

(この写真は永瀬四郎提供)


 戦前の海軍兵学校は広島湾の江田島にあった。現在は海上自衛隊が第一術科学校と幹部候補生学校として使用している。前者は術科教育と研究を行う。後者は防衛大学校出身者のうちの海上自衛隊配属者と、一般大学出身者からの入校者で構成される。彼らに海上自衛隊幹部としての専門教育を実施するのがこの学校の役目である。すなはち戦前の海軍兵学校に相当するのがこの学校ということになる。

 江田島の海軍兵学校は戦前、米国のアナポリス海軍兵学校、英国のダートマス海軍兵学校と並び、世界の三大海軍兵学校と称された。各学校の生徒はそれぞれ、お互いを意識していた。いつの日か戦場で合間見えることを覚悟しつつ、学業・訓練に励んだのであった。 (アナポリス海軍兵学校、ダートマス海軍兵学校についてはリンクでどうぞ)

広島湾北部要図


 海軍兵学校が東京築地から江田島に移転したのは明治21年(1888)のことであった。帝都の喧騒を避けて、生徒は学問と訓練に集中できるというのが移転の主な理由であった。江田島湾内の水深は20メートルと深からず浅からず、軍艦の錨泊に適していた。当時の小規模な聯合艦隊は全艦、江田島湾内に収容できるというのも魅力であったろう。しかし、本土との交通といえば、呉から小用までの連絡船と広島市の外港、宇品港から切串までの連絡船しかない。呉線が、広島から呉を経由して、三原まで開通したのは昭和9年(1934)のことであった。文字どおり文化果つる僻陬の地であった。現在では、音戸大橋、早瀬大橋を通れば呉から陸路1時間で、旧海軍兵学校に着ける。宇品港からでも高速艇で25分に過ぎない。上図で海上自衛隊の赤色の表示があるのが旧海軍兵学校である。


採用試験

 大東亜戦争は開戦2年目に入って、わが方の戦果はますます拡大する勢いであった。昭和17年(1942)6月上旬のミッドウエー海戦で、聯合艦隊は手痛い敗北を喫したが、損害は過少に公表された。世間一般にはいまだ緒戦の熱気が冷めやらない。戦争の当面の立役者は海軍だというので、国民の海軍に対する信頼や評価は高いものがあった。このような社会の雰囲気の中で、昭和17年8月上旬、全国51の試験場で一斉に、海軍兵学校の採用試験が行われた。応募者は12000人という空前の規模に達した。学術試験の前に身体検査が行われる。軍の学校であるから身体検査が厳しいのは当然である。身長、体重、胸囲など検査諸元には具体的な合格ラインが設定され、公表されている。

 視力の検査はとくに厳重である。レーダーが実用化されていなかった当時に於いては、敵発見の能力は視力の優劣に掛かっていた。艦艇であれ飛行機であれ、相手を早く発見したほうが、戦闘で優位に立つ。万国試視力表で測定して両眼1.0以上の視力が、海軍兵科将校に不可欠の資格であった。同時に行われる海軍機関学校、海軍経理学校の採用基準では、視力の合格基準がいくらか引き下げられている。また経理学校においては応募者の年齢制限が、他の2校よりも2歳年長まで認められている。兵学校の応募者はたいてい16歳から18歳までの青年である。

 海軍兵学校の採用試験は、身体検査が特別に厳しいだけでなく、学科試験のやり方にも独特なものがあった。初日の数学(第一)全5問のうち、正解のないものは爾後の試験を受けられない。試験が終わって1時間半位で結果が発表される。全受験者の受験番号が掲示板に張り出されるが、正解のなかった者の受験番号には斜線が引かれている。斜線を引かれた不合格者はすごすごと試験場を後にする。第一日目に三分の一ぐらいの不合格者が出る。翌日の数学(第二)全5問のうち正解のない者はその日の午後以降の試験を受けられない。この数学の2回の試験で受験生は大体、初日の三分の一位になってしまう。受験生は海軍兵学校が如何に数学を重視するかを、身をもって実感する。

 近代兵器を駆使して戦う海軍には、科学知識とその元になる数学の理解が不可欠なのであった。艦砲射撃にも公算や確率や弾道学が必要である。大洋航海には恒星の高度を測定して艦位を出す、天文航法がいる。それには球面三角の知識は欠かせない。飛行機搭乗員には流体力学の知識が不可欠である。三角函数や対数は日常生活のいたるところで使われた。これらの数字を記載した『計算常用表』という小冊子は、生徒が常にベグの中に入れて持ち歩く必携品とされた。ベグとは生徒が左小脇に抱えて持ち歩く布製のバッグのなまったものである。入校後、兵学校生徒には帝国大学の理工科並みの知識を習得してもらうと言われた。それはともかく、この年の試験日程は次のとおりであった。 


 こうして毎日受験生が減っていき、最後に残った者が口頭試験を受ける。口頭試験の後は被服や靴の採寸がある。受験生はほとんど合格者の気分であった。しかし試験がそこで終わってもまだ関門がある。海軍は試験に合格した採用予定者の身上調査を、陸軍に依頼していた。身上調査といっても応募者は皆子どもであるから、家庭状況の調査ということになる。家庭状況に非のあるものは採用しないというのが海軍の方針であった。陸軍の憲兵が採用予定者の身上調査を行った。隣近所を回って、該当者の家の評判を聞くのもこの調査の一環であった。かくてすべての関門を通過した約千名の採用予定者には、11月1日の日曜日に 「カイヘイゴウカク イインテウ」 の電報が届く。電報をもらった合格者は、その年11月下旬の指定された日に、江田島の海軍兵学校にあつまる。しかしこれで無事入校というわけではない。再び厳重な身体検査がある。兵学校は胸部疾患にはとくに神経質で、ここまで来て不合格となる者もいるのである。

  すべての関門を突破して、昭和17年(1942)12月1日、晴れて海軍生徒となった74期生徒は1028名であった。



第74期生徒入校に際し井上校長訓示

第40代海軍兵学校長 井上成美中将


  諸子は全国より選ばれて本日海軍兵学校生徒を命ぜられここに光輝ある歴史と伝統とを有する帝国海軍軍人としてその第一歩を踏み出すこととなれり。諸子の得意察するに余りあり。然れども諸子は今や寸刻も漫然入校の喜びに浸り、栄誉に酔ひて過ごすべきにあらず。諸子は今より直ちに将来有為なる海軍将校たるべき素養の修練に全力を傾注すべきなり。仍て本職はこの機にあたり諸子の依るべき心構へを示し訓示となさんとす。

1. 本校は名は学校なるも実は修練道場なり。単なる学問を受くるところに非らず。人格を磨き、体力を練り、且将校たるに必要なる学術を修むるところなり。之蓋し海軍将校たるに必要なる3要素なればなり。

2.本校の学術教育は生徒の自啓自発を本旨とす。故に諸子は 「教えらるるが故に学ぶ」 の態度を捨て、「学ばんと欲するが故に教えを乞う」 の態度を以て、当に積極進取学業を励むべし。

3.諸子の学習は学術を知得するに満足することなく、学びたる学術は各自の身に着きたる活用自在の我がものとすることに努力すべし。凡そ活用の実力なくして机上の学術の知得を以て事足れりとなすは恰も剣法を心得ずして名刀を所持するを誇るに等し。

 以上は諸子の心得べき本校の生徒教育の根本方針なり。

 諸子は本日入校に当たり各自相当の決心と覚悟とを有するならん。諸子は永く此の本日の覚悟を保持すると共に以上の根本方針を銘記し職員及び上級生徒の指導の下に生徒の本分に精進し以て将来名誉ある海軍将校たるべき素養の修練に邁進すべし。(終)

  昭和17年12月1日

海軍兵学校長 海軍中将 井上成美




兵学校生活の諸相

総員起し 於西生徒館玄関

生徒館の一日

起床動作



 生徒館の一日は、暁闇を衝いて響き渡る総員起しのラッパから始まる。夏は5時、冬は6時である。ラッパ曲が終わるや、生徒は一斉にベッドから跳ね起きる。毛布をきちんとたたんで、ベッドの足元に重ね、寝間着を事業服に着替えて、寝室を飛び出すまでの標準時間は2分30秒である。一号生徒の計時係が寝室の入口で時間を計っており、これに遅れた三号生徒は活を入れられる。寝室を飛び出した生徒は、便所、洗面所でそそくさと用を足した後、校庭で一号生徒の号令のもと、海軍体操15分間、このときは夏冬を通じて上半身裸である。その後は午前7時の朝食まで学課の準備や身の回り整理で過ごす。起床動作を急ぐあまり、毛布の整頓に乱れがあると、後から回ってくる週番生徒が甲板棒(かんぱんぼう)で崩していく。「毛布を崩されたものは自習中休みに週番生徒室に来たれ」 とのお達しが出される。自習中休みには、週番生徒からたっぷりお説教を聴かされ、修正されたうえ放免される。お説教のことをお達しといった。修正とは鉄拳制裁の美称である。いづれも特殊な兵学校用語である。


週番生徒

 海軍兵学校は生徒隊、学生隊、定員隊の3隊から構成されている。生徒隊とは中学から、採用試験に合格してきたわれわれのような生徒の集まりである。当時、約2500名であった。学生隊は上等下士官のうちの成績優秀者で、兵曹長に登用されるものの登竜門である。専修科学生と称した。人数は約200名。定員隊は下士官兵を含む数百名規模の部隊である。学校付属の建物や設備の維持・整備のほか付属艦艇の乗組員もつとめる。付属艦艇の中には柿、菫などという老朽駆逐艦もいた。広島湾内の日帰りの簡単な訓練にはこれらの老朽艦が使われた。

 生徒の生活は学業訓練を除き、一号生徒の指導する自治で運用される。生徒自治を円滑に運営するため、一号生徒の中から交代で週番生徒が選ばれる。各部数名である。その上に生徒隊週番生徒がいて全般を統括する。週番生徒は左腕に赤白赤だんだら模様の腕章をつけ、甲板棒を持って生徒館内やその周辺を見回る。異常や不都合の発見とその矯正につとめる。下級生には怖い存在である。週番生徒の常駐する週番生徒室があり、週番生徒は起床30分前から就寝30分後までここで勤務する。普通の学業訓練をこなした後の仕事であるから、かなりの肉体的負担になる。1週間つとめると数キロは痩せる。三号生徒にとっては週番生徒室は鬼門である。


課業整列・課業行進

課業整列 課業行進
東西両生徒館に面して整列 西生徒館の前をラッパに合わせて講堂へ

(写真は真継不二夫氏撮影)


 午前8時に生徒館前の練兵場に教班ごとに整列して、講堂まで行進する。10分位はかかったであろうか。足を高く上げる、いわゆる歩調は取らないが、「早足行進ラッパ」   に合わせて歩くのは、背の低いものにとってはかなりの負担である。生徒が左小脇に抱えているのは教科書や学用品を入れたバッグである。なまってべグと称した。左上腕に2本の赤線の入った腕章をつけているのは週番生徒である。病気や怪我で訓練を免除されたものは左上腕に緑色の腕章をつける。これを青マークと称した。非行があって懲罰を喰らったものは、懲罰期間終了まで帽子の日覆いを外させられる。これらの、一般生徒と服装の異なるものは行進では何時も最後尾につく。余談であるが日曜、祝祭日に午後5時の帰校時間に遅れたものは,退校という最も厳しい処分を受ける。退校のことを生徒は免生または免生徒といっておそれた。

 このほか分隊に割り当てられた短艇の整備、自習室、寝室の掃除その他雑務はすべて三号生徒の仕事である。これらの雑務を総称して隊務といった。三号生徒は学課や訓練が終わっても隊務のためユックリ休息する暇はなかった。

学課・訓練の概要

普通学
 学課は午前8時15分から正午までの間に、1時間30分単位の2時限が行われる。昼食をはさんで午後1時15分から1時限。 3時半から1時間は訓練となる。学課は普通学と軍事学に分かれる。普通学は文官の教授に習う。生徒数の増加にともない、教授陣の補充として、予備学生出身の士官が当てられた。彼らはいずれも大学成績、予備学生成績ともに優秀な人たちで、数学、物理、化学、英語や国語などを教えた。彼らの一人に習った最初の英語はコンラッドの 『誘拐されて』 の訳読であった。

 国語の第一課は万葉集であった。万葉集中の和歌が十数首並んでいる。その冒頭の一首は万葉集巻一の次の歌であった。

 あさよし紀人きひとともしも亦打山 まつちやま行きと見らむ紀人きひとともしも

 一首は、姿かたちの美しい真土山を、奈良の都への行きかえりに眺めることのできる紀の国の人は羨ましいなあというほどの意味であろう。現在から見れば何ということもない歌であるが、軍国少年から脱皮し切れていない三号生徒にとっては、かなりの文化的ショックであった。中学時代には、万葉集といえば 「あられ降る鹿島の神に祈りつつすめらみいくさに我は来にしを」 などという勇ましい防人の歌しか知らなかったのである。

軍事学
 砲術、水雷、航海、通信、航空、潜水艦、陸戦などが軍事学である。教官は兵学校を卒業し、それぞれの学校、たとえば砲術学校、水雷学校、航海学校などの高等科学生課程を卒業して、実務経験を積んだ大尉や佐官クラスである。教官のもとに優秀な下士官がついて実務を教える。これを教員といった。兵学校生徒の階級は准士官の下、下士官の上である。教員には下の階級の者が上の階級の者を教える苦労があった。「00生徒、教範の第3頁を読む」。「読め」 という命令形になるべきところが 「読む」 という終止形になるのだ。それはともかく、彼らは上等下士官になり、善行章4、5本も制服の右腕に付けると、選ばれて兵学校の専修科学生となる。卒業すると兵曹長、やがて累進して海軍少佐までの道が開ける。

 砲台脇の砲術の授業で教員から12.7糎高角砲の操法を習った。「00生徒、砲弾を担ぐ」 教員用語の命令形である。どこといって掴むところのない表面ツルツルの砲弾を、肩に担ぎ上げるさえ難しいのに、砲弾を肩に乗せたまま講義を続けるのである。その重さ、からだごと地面にめり込むのではないかと思うほどであった。操法の授業も上の空である。勿論、実戦では機械装置で動かすので、よほどのことがなければ人力を使うことはない。

 二号生徒、一号生徒と上級に進むにつれて軍事学の比重が高くなる。それは当然で、われわれは即戦力になることを期待されているのだ。卒業して実施部隊に赴任すると、分隊長は 「よろしく頼む」 というだけである。前任の分隊士は通常、新任分隊士の着任したその日に、事務引継ぎもそこそこに、そそくさと退艦する。あとは分隊の先任下士官と相談しながら、部下の教育・訓練、受け持ち兵器の整備、戦闘などに当たらねばならない。下士官兵の任用・進級の時期になると内申書の制作など誰にも相談はできない。軍事学を怠けているわけにはいかないのだ。

訓練
 訓練には毎日午後3時半からの1時間が当てられる。訓練の中でも武道、体操、短艇はとくに重視される。武道は剣道、柔道、銃剣術、射撃、相撲とあるが剣道、柔道が重点である。6月は相撲月間である。相撲は国技館で幕下二枚目をつとめた花坂吉兵衛が指導した。「負け残り」 という訓練法も兵学校独特のものであった。「押さば押せ、突かば押せ、押して勝つのが相撲の極意」 などという歌も習った。体操はデンマーク体操を改良したという海軍体操である。体操は身体鍛錬の技術としてそれ自体が重要であるが、また、他の体技の準備運動、終末運動として欠かせない。兵学校生活を通じて、海軍体操をやらなかった日はなかっただろう。大東亜戦争の初期、インドネシアの石油産地、セレベス島メナドに降下した海軍落下傘部隊の司令、堀内豊秋中佐はこの海軍体操の権威者であった。 1月中旬からの2週間は厳冬訓練である。5月中旬は短艇週間で、最後の日は宮島遠漕である。 7月上旬から9月上旬までの酷暑日課中の訓練は毎日水泳である。その打ち上げには遠泳と各種競技が行われる。


自習
自習室風景


 訓練が終わる午後4時半から夕食の始まる5時半までに、生徒は入浴、洗濯そのたこまごました私用を片付ける。午後6時半から9時半までが自習時間である。上の写真で自習室の前方から三号生徒、二号生徒、一号生徒と並ぶ。自習室には廊下に面して前後に入口がある。後部の入口は一号生徒の専用となる。自習室の前面の壁には「五省」の額が掛かっている。後部の壁際、一号の背後には小銃が銃架に並んでいる。8時から15分間は自習中休みとなる。中休みには全員、生徒館前を東西に歩きながら号令練習をやる。「合戦準備、夜戦に備え」 とか 「打ち方始め」 とか皆勝手な号令を唱えつつ歩く。何しろ2千数百名の声だ。江田島や能美島の山々にこだまして一日の終わりを告げる。自習止め5分前になると、皆瞑目して、当番の朗誦する 「聖訓五か条」 と 「五省」 に耳を傾けて一日を反省する。

西生徒館夜景

寝言




 午後9時45分、巡検用意、10時巡検。静かで眠気を誘う巡検ラッパが鳴り終わると、当直下士官に先導され、週番生徒を従えた当直監事が各分隊の寝室を回ってくる。生徒が異常なく就寝しているかどうかを確認するのである。この巡検は、海軍の学校、実施部隊では何処でも、一日の終わりの儀式として厳粛に執り行われる。

 当直監事が寝室を出て、巡検終わりが宣言されると、兵学校名物 「寝言」 が始まる。一号生徒が三号生徒に対して気楽に話しかけるのである。内容は海事常識、海軍用語の解説、怪談などなどと多岐にわたる。昼間は厳しい一号生徒が、この時ばかりは昼間の威厳をかなぐり捨てて、仲のよい弟にするように、砕けた話をする。教官の講義は皆忘れてしまっても、巧妙に語られた寝言の内容はいまだに頭の隅に残っている。三号生徒はこれによって、知らず知らずのうちに海軍の常識を身につける。階級制度の厳重な海軍で、この 「寝言」 は豊な感情の交流を醸成する良い伝統であった。 寝言のうまい一号生徒は三号生徒から敬愛された。入校直後に誰もが聞く寝言の定番は次の和歌である。

  スマートで目先が利いて几帳面負けじ魂これぞ船乗り

 スマートとは整然としていて見た目が綺麗なことをいう。目先が利くとは物分りが早く俊敏なことをさす。鈍感でぐずぐずしていることの反対概念である。几帳面とは整理整頓がよくできることである。起床動作の毛布の積み重ねでは、数枚の毛布が、ふちが直角の立方体として、垂直に立ち上がっていることを要求される。負けじ魂は棒倒しの精神といえばよいだろう。酷暑日課になると、巡検後30分間、屋上や校庭での納涼が許される。
  

週間行事

棒倒し

 土曜日午後は講義がなく、そのかわりに自習室、寝室の大掃除をする。終わって午後3時から、兵学校名物棒倒しが始まる。部対抗の行事である。われわれの時代には生徒隊は8部64個分隊で構成されていた。左の写真で、前方の2群のうち左方は本陣、右方は前衛である。後方、西生徒館前の大群は攻撃隊である。これより50メートルの前方には同じ隊形で敵がこちらを睨んでいる。戦闘開始直前の緊張した場面である。

 戦闘開始のラッパとともに、両軍攻撃隊は相手陣地に殺到する。急所以外は殴っても、蹴っても自由。勿論一号生徒、二号生徒、三号生徒の区別はない。三号にとっては日頃の鬱憤を晴らす絶好の機会となる。一方の旗が70度にも傾くと審判官の指示で戦闘止めのラッパが鳴り響いて、両軍攻撃隊が引揚げる。勝った方の部が万歳を唱えて終了する。棒倒し中、生徒が着ているのは棒倒服と称する専用の上着である。厚手の木綿でできていて、ボタンも襟もなく、容易に破れない。


軍歌演習

 日曜日の夕方、外出から帰ると、夕食後、全校生徒2千5百名が校庭に円陣を作って軍歌演習を行う。左の写真で、右上方号令台の上から、生徒隊軍歌係生徒が指揮をとる。内輪は時計回り、外輪は反時計回り、生徒は左手に軍歌帳を高く掲げもち、軍歌を高唱しつつ歩調をとって行進する。陣列を離れて行進しているのは週番生徒である。写真の下方左寄りに、上着白、ズボン紺の後ろ向きの人物は当直監事である。 生徒が好んで歌ったのは江田島健児の歌、軍艦マーチ、佐久間艇長、上村将軍などであった。

上村かみむら将軍



一.荒波吠ゆる風の日も   大潮咽ぶ雨の夜も
   對馬の沖を守りつつ   心を砕く人や誰れ
   天運時をかさずして    君幾度かそしられし
   ああ浮薄なる人の声   君睡れりと言わば言え
   夕日の影の沈むとき   星の光の冴ゆるとき
   君海原を打ち眺め     忍ぶ無限の感如何に
二.時しも8月14日      東雲白む波の上
   煤煙薄くたなびきて    遥かに敵の影見えぬ
   勇みに勇める丈夫が   脾肉は躍り骨はなる
   見よやマストの旗の色   湧き立つ血にも似たるかな
   砲声天に轟きて      硝煙空に渦まけば
   あかねさす日も打ち煙り 荒るる潮の音高し
三.蔚山沖の雲晴れて    勝ち誇りたる追撃に
   艦隊勇み帰るとき     身を沈め行くリューリック
   恨みは深き敵なれど   捨てなば死せん彼らなり
   英雄の腸ちぎれけん   救助と君は叫びけり
   おりしも起こる軍楽の   響きと共に長しへに
   高きは君のいさほなり   匂ふは君の誉なり

注:上の曲のメロディは 「天翔艦隊」より拝借しました。

(注)
 上村中将は日露戦争の中期までは第二艦隊司令長官として、主としてロシアのウラジオ艦隊の制圧を担当した。このウラジオ艦隊は上村艦隊の監視の目をかいくぐり、日本海や東京湾口に出没して通商破壊戦に従事し、赫々たる戦果をあげていた。ウラジオ艦隊が戦果をあげるたびに、日本国民は上村中将を無能、卑怯とののしった。明治37年(1904)6月、広島を出港して、朝鮮半島に向かっていた常陸丸は、対馬海峡でウラジオ艦隊に撃沈された。乗っていた陸兵千名以上が戦死し、国民の上村将軍に対する非難は頂点に達した。しかし、同年8月、第二艦隊はついに朝鮮、蔚山沖でウラジオ艦隊に遭遇し、そのうちの1隻を撃沈、他の2隻を大破逃走させた。これによって第二艦隊は、聯合艦隊に復帰して、翌年のバルチック艦隊との対戦に備えることができるようになった。上村中将はこの戦いが終わって、波間に漂流する沈没艦の将兵を救助した。これが報道されてわが国に対する世界の評価を高めた。国民の非難に堪え、忍苦数ヶ月、ついに目的を果たした同将軍は、兵学校生徒の敬愛する先輩の一人であった。


年中行事

厳冬訓練

 
 1月上旬、冬期休暇が終わって帰ってくると翌週から厳冬訓練が始まる。因みに冬期休暇は戦局の逼迫により、昭和17年以降中止となった。厳冬訓練は朝5時起床,カンテラを灯しての短艇訓練から始まる。冬季の5時といえば外はまだ真の闇である。闇の中を艇指揮の叱咤の声,櫂の立てる波の音が響く中を、カンテラの灯りが縦横に行き交う有様はなかなか幻想的である。しかし三号生徒は必死に漕いでいるので、感傷に浸っている余裕などない。硬い艇座のために尻は破れて血まみれとなる。短艇訓練と武道を交互に繰り返しつつ2週間の訓練日程を終わる。

乗艦実習

 兵学校は海軍の学校だから生徒は軍艦生活に馴染むことを求められる。そのため年に数回の乗艦実習が行われる。乗艦実習は日露戦争当時の旧式重巡、磐手,八雲からなる練習艦隊で行う。学年によって実習の内容、期間はことなる。われわれのクラスは卒業直前、練習艦隊で大阪まで行き、大阪から電車で伊勢神宮参拝をした。瀬戸内海航行中は勿論昼夜の別なく訓練が行われる。愛媛県今治沖の来島海峡は潮流の早いことで有名である。最盛期には8ノットの流速がある。鈍足の練習艦隊は青息吐息である。昔、固唾を呑んで通ったこの海峡も、今は来島海峡大橋の上から、高見の見物で俯瞰することができる。香川県の多度津沖を通るときには、海の神様である琴平神社にお賽銭を上げる。醤油樽のあいたものに現金をつめて、「軍艦磐手」 と書いた旗を立てて海に流す。これを拾った漁師は、縁起がいいとしてこれを琴平神社に届けることになっている。昔からの海軍のしきたりである。

来島海峡大橋上から見た来島海峡の渦潮 正面は小島 左画面外に来島
平成11年10月26日夕刻写す

(この写真は岡野幸郎撮影)

宮島遠漕

 5月に入ると短艇週間が始まり、毎日午後の訓練時間は短艇の漕ぎ方の訓練となる。海軍の短艇は競争用のボートとは異なり、胴体が膨らんでいて容易に転覆しない。救助艇としての役目を持っているから当然のことである。定員は14名であるが45名まで載せることが出来る。そのためになかなかスピードが出ない。艇座は六つあり、その左右に艇員一人づつが座って合計12人で櫂を漕ぐ。艇尾の左舷には艇長が座って舵をとり、右舷には艇指揮が座って全般の指揮をし号令をかけたり、励ましの言葉をかけたりする。艇長、艇指揮は一号生徒である。宮島遠漕は短艇週間の悼尾を飾る重要行事である。分隊間の競争である。優勝分隊のクルーにはメダルが授与される。各分隊の力の入れようも半端ではない。江田内から宮島の聖崎までの10マイル(約18キロ)を2時間あまりで漕破する。終わって厳島神社に参拝したり土産物屋を冷やかしたり、写真を撮ったりするのは、この苦しい宮島遠漕のなかの楽しみでもあった。大鳥居に短艇を舫い、一号生徒は鳥居に小便をかけた。大鳥居に小便をすると戦死しないというジンクスがあるという。しかし一号生徒の願いもむなしく大方死んでしまった。

遠泳

遠泳の終盤、津久茂水道をかわして兵学校へ
 7月1日から酷暑日課が始まる。これから9月上旬酷暑日課の終わるまでは、午後の授業はなく、訓練はすべて水泳である。山国の海なし県から来た生徒の中には泳げないものが少なくない。彼らは赤帽をかぶせられて水泳をいちから始める。赤帽にとっては酷暑日課中は地獄の期間である。

 酷暑日課のハイライトは8月中旬の遠泳である。これは級別に分けて行われ、初心者の組は兵学校の対岸の飛渡瀬 (ヒトノセ) から学校までの3、4キロを泳ぐ、最上級者は宮島の直ぐ東にある小那沙美島の砂浜の海岸から泳ぎ始める。兵学校までの距離は8マイル(約15キロ)である。前に掲げた広島湾北部要図のほぼ中央に、那沙美島というのがある。この島の北方1キロぐらいのところに島名の記入してない小島がある。これが小那沙美島である。無人島である。当日は朝4時起床、機動艇でこの島の砂浜の海岸まで運ばれて、日の出と同時に泳ぎ始める。朝飯と昼飯は伴走の通船につかまりながら握り飯と漬物を頬張る。江田島の入口、津久茂水道では途中で潮流が逆になるのでさすがに苦しい。やっと学校までたどり着いたのは午後7時過ぎ、夕闇が迫る頃であった。水上機を引き上げるコンクリートのスロープから上がるのだが、半日以上も平泳ぎを続けたため立てない。いざりながら飲んだ飴湯のおいしかったことも忘れられない。

夏期休暇

いざ故郷へ(夏期休暇)於小用桟橋
 苦しい訓練と学業に明け暮れる生徒生活にあって休暇は最大の楽しみである。しかし戦局の悪化に伴って兵学校も短縮教程となり、昭和17年(1942)以来冬期休暇は中止となった。7月下旬から8月上旬にかけての10日間の夏期休暇だけは残った。 生徒は家族への土産の江田島羊羹をトランクに詰めて小用峠を越え、船で呉に渡り、呉駅からは上りの臨時列車で故郷に向かう。九州方面の者は宮島口から下りの臨時列車に乗る。 郷里の村に帰り、畳の上に寝そべると、昨日までの兵学校に比べあまりの生活の落差に、夢を見ているのではないかと思うほどであった。


 休暇で故郷に帰ると近所や親類への挨拶回りのほか母校訪問という欠かせない行事が待っている。陸軍士官学校の生徒も休暇で母校訪問をするが、カーキ色の軍服に牛蒡剣といういでたちである。兵学校生徒は目のさめるように白い麻の夏服に短剣を吊った姿である。両者の人気には格段の差がある。まず在校生たちの好奇と羨望の眼差しの中を教員室に入る。時には講堂で全校生徒を前に講演を求められることもある。


原村演習

原村演習
 戦前、今の東広島市に陸軍の広大な演習地があった。所在地の名前から原村演習場といった。兵学校は毎年10月、ここを陸軍から借りて約1週間の陸戦演習を行った。海軍といえども陸戦隊を持っており、場合によっては陸軍と同じ戦闘をしなければならない。そこで兵学校でも小銃射撃、銃剣術、匍匐前進など陸軍の真似事をした。しかしこれらの訓練は箱庭のなかのままごとのようなもので、どうしても山野を走り回る実戦に近い訓練が必要とされた。まず陸戦服に身を固めて小銃と機銃 (陸軍の機関銃のことを海軍では機銃といった。重機関銃は重機、軽機関銃は軽機である) で武装した全校生徒は、 広島駅から臨時列車で八本松駅までいき、 演習場まで行軍をする。そこで毎日さまざまな状況を想定した訓練が行われる。10月中旬といえば松茸のシーズンである。斥候に出されて山中を彷徨するうちに、思わぬ収穫を手に入れることも稀ではない。

 訓練の最終日は原村から呉までの追撃退却戦である。全校生徒を退却組と追撃組の二手に分ける。呉までの20数キロを完全武装のままほとんど駆け足で走りぬく。退却組の後衛になると大変である。後衛は本隊の退却をスムースにさせる任務を負わされている。時々立ち止まって重機を据え、攻撃軍の先鋒を掃射する。或いは街道沿いの丘陵の松林の中を、重機を銃身と架台に分解して運ぶ。平坦な場所を見つけて架台を据える。これに銃身を嵌めて攻撃軍を側射する。道路上を駆け足で敗走するだけで大変なのに,道なき山中を重い重機を担いで走る。その苦しさは言語に絶する。午後3時、状況終わりが宣言される。焼山の頂上から呉港を見下ろしたときの安堵感も忘れがたい。因みにこの原村演習場は戦後、一部は陸上自衛隊の演習地として残されたが、一部はゴルフ場となっている。

弥山(ミセン)登山競技

 弥山は宮島の主峰である。海抜529メートル。この峰の頂上へ向かって、麓の大元公園から駆け上がるのである。時期は10月末、紅葉シーズンにはいささか早い。分隊競技であるが個人の成績も評価される。熱心な分隊は競技の2ヶ月ぐらい前から生徒館の階段を使って脚力を鍛える。また日曜日の外出時間、古鷹山(392メートル)に登って実戦的な練習をする。古鷹山は生徒館の写真の背景に見える山で、生徒は折にふれてこの山に登る。弥山登山道の要所要所と頂上ゴールには、看護兵が酸素吸入器を用意して万一に備えている。優勝者の記録は19分30秒前後である。競技は苦しいが頂上から俯瞰する瀬戸内海の眺めは絶景である。小那沙美島、大那沙美島が足下に見え、はるか東方に江田島がかすんでいる。競技が終わると大元公園まで下りて昼飯を食べ、機動艇で江田島に帰る。現在はこの山の副峰の頂上、獅子岩までロープウェイが通じている。われわれが昔駆け上がった主峰に比べるとかなり低い。
弥山山頂より江田島を望む

写真説明:
 手前右大那沙美島 その上能美島 その上江田島 手前左小那沙美島 その上似ノ島 その上本土の山並み。大那沙美島の下方宮島の小半島の手前に白く見えているのは包ガ浦。昔はカネガ浦と称する兵学校の幕営地であったが、今はツツミガ浦とよんで海水浴場になっている(この写真は岡野幸郎撮影)。


卒業

決戦の海へ 昭和20年3月第74期卒業

  淡い生活4年も過ぎて
  ロングサインで別れてみれば
  許せ殴った下級生
  さらば海軍兵学校
  俺も今日から候補生
  われら兵学校の三勇士


 上に掲げたのは兵学校で長く歌い継がれてきた戯れ歌 ”兵学校三勇士” の最終節である。兵学校の修学年限が4年であった平和の時代に作られたものである。ロングサインというのは、スコットランド民謡 「Auld Lang Syne」(楽しかった昔) のなまったものである。日本では 「蛍の光」 として明治以来、小学校の卒業式に歌われてきた。この曲は生徒が機動艇で表桟橋を出るときに、軍艦マーチに続いて演奏されることになっている。

 われわれの卒業式は昭和20年3月30日、千代田艦橋前の練兵場で行われた。本来、大講堂で行うのであるが、在校生、卒業生を合わせると膨大な数にのぼる生徒を、大講堂といえども収容しきれないのであった。父兄の参列は昭和17年以来中止されていた。前年12月から霞ヶ浦航空隊に派遣されていた航空班の一部、約300名は所在の航空隊で行われた卒業式に臨んだ。

 卒業式後、食堂で最後の食事として、豪華な昼餐をご馳走になった。その後、大講堂から生徒館前に堵列して見送る下級生に、挙手の会釈を返しながら、表桟橋に待つ機動艇に向かう。上の写真はその状況を示す。卒業生は左手に日本刀を持っている。すでに硫黄島は玉砕した。米軍はついに沖縄に上陸した。本土決戦も間近に迫っている。海軍といえども日本刀は必携の武器であった。機動艇上、見送りの教官、生徒に帽を振りつつ、果たして今年一杯命があるかと思ったものであった。

 下の写真は平成5年4月、幹部候補生学校の卒業式後の、候補生出発の状況である。舞台も演出も昔のままである。彼らはこのまま表桟橋にいたり、機動艇で沖合いに待機する艦艇に分乗して、近海航海に乗り出す。上空には、P3C対潜哨戒機など各種の飛行機が祝賀飛行を行っている。女性の候補生が先頭というのも珍しい。候補生の顔は、国防の第一線に赴く戦士の誇りと希望に満ちているように見えた。
希望の海へ 平成5年4月第43期幹部候補生卒業

(この写真は岡野幸郎撮影)

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