74期の軌跡 その二

戦時配置

戦時配置の概要

 わが74期が一号生徒になったのは、昭和19年3月のことであった。翌4月末にはクラス総員約千名は航空班と艦船班に分けられた。戦局の逼迫は急速な即戦力の養成を必要としていたのだ。 分割の比率は、航空班:艦船班=6:4であった。各分隊における一号生徒の、両班の比率を適当なものにするために、小規模な編成替えが行われた。この年12月10日、航空班の半数約300名は、実技訓練のため霞ヶ浦航空隊へ派遣された。百年を超える兵学校の歴史において前例のないことであった。前項で述べた昭和20年3月の卒業式は、本校生徒、岩国分校生徒および大原分校生徒あわせて約700名の、本校での卒業式であった。霞ヶ浦航空隊で訓練中の生徒は所在の場所で卒業するという、変則的なものであった。

 卒業式後、われわれは表桟橋から機動艇でそれぞれの任地に向かった。  呉港近辺の艦艇、学校、突撃隊などへ赴任するものは機動艇でそれぞれの任地へ着任した。大和など所在を秘匿されていた艦艇に行く者は、一時、養浩館へ宿泊した。横須賀周辺の学校、実施部隊に行く者は宇品港まで機動艇、後は列車であった。このときの配置別の人数は次表のとおりである。


 大和、矢矧に配属された者は、4月6日、沖縄に出撃の前夜,退艦を命ぜられた。候補生はいまだ教育課程にある者で、特攻出撃に参加させるのは適当でないという理由からであった。彼らは他の艦艇に分散して配属された。6月1日、候補生に大幅な人事異動があった。沖縄の戦勢回復の見込みなく、本土決戦に備えたものであったろう。

航空

 卒業前に霞ヶ浦航空隊に派遣された生徒は、卒業と同時に海軍練習航空隊飛行学生を命ぜられ、第43期飛行学生となった。6月14日からは機種ごとの実用機教程が実施され,零戦は千歳基地、九九艦爆・九七艦攻は第一美幌基地、九六陸攻・偵察は第二美幌基地へとそれぞれ配属された。

(上の写真は小宮山玄二提供)


 しかし、戦局の逼迫にともないこの実用機教程は中止され、7月1日からは特攻訓練、特殊機 (秋水) 訓練、地上教育の三区分の教程となった。それ以外の飛行訓練も燃料の許す限り実施された。零戦の訓練を受けたものもあった。そのような状況の中、5月5日にはわがクラスの航空班の残りの一部30名が、第44期飛行学生として霞ヶ浦航空隊に赴任した。


特攻訓練  久保田 喬
 昭和20年7月、美幌航空隊において、天山に一度試乗 (艦攻操縦学生) した後、九三式中間練習機による特攻訓練に入った。昼は網走湖に浮かべた筏を目標に、降爆訓練と超低空飛行、夜は夜間飛行に明け暮れた。電線より低く飛び、電柱を見てはスティックをひょいと持ち上げる。牧場では牛や馬を追いかけた。海岸の崖を見上げながら、海上1メートルを飛んだ。海中にうねっていた昆布の群れが今も目に浮かぶ。夜の雲上飛行では自然の荘厳さに涙した。夜間の着陸では、停車場の赤青のシグナルを飛行場と間違え、危うく殉職しそうになった。神風特別攻撃隊第一次古鷹隊は、百里ケ原海軍航空隊へ向かう途中で8月15日を迎えた。

芦田 とみの思い出  小崎啓介
 芦田という男は飛行機の操縦が上手な奴だった。霞ヶ浦の飛行作業では、田村、福永、芦田と俺がペアーで、大島大尉の担当だったが、計器飛行の互乗で、芦田の後席に乗ったことがあった。所定の高度まで昇って 「見張りよし」、前席にホロをかぶせて、「ハイ!計器飛行はじめ」。しばらくしても針路、高度、速度が全く変わらない。計器の故障かなと思って、計器板をドンドン叩くが一向に変化なし。そのうちに旋回、上昇、降下をはじめたがピタリと諸元どおり。惨憺たるわが技量と比べて憮然としたものだった。その彼も今はない。冥土で何をしているのやら。冥福を祈るのみ。(資料集: 「富生徒との一日」をご覧ください)

霞空以来のこと  権守 博
 兵学校一号生徒のまま霞ヶ浦海軍航空隊第43期飛行生徒として、昭和19年12月に江田島を発った。中央線経由で新宿に到り、上野より荒川沖駅下車、霞空に着任した。翌日より早速、期指導官付71期の分隊士に、元の三号生徒宜しく修正を受け、実戦に備えた精神教育で鍛えられる。
 3月10日の東京大空襲の赤い炎を眺め、切歯扼腕する。
 3月30日兵学校卒業式が後輩生徒のいない霞空にて挙行され、同日、飛行学生に任じられる。
 5月、敵空襲を考慮し千歳空に移る。九三中練の編隊を組んで、三班に別れ出発する。小生は三沢より海峡を越えて千歳に向かうが、濃霧発生のため北海道を望めず引き返し、大湊空に着陸する。燃料到着までの一週間を、青森りんごを食べながら待つ。  千歳で練習教程を終わり、6月より零戦の離陸訓練、終わってロケット戦闘機秋水の、中練による訓練に入ったところで終戦を迎える。

(注) 秋水
三菱重工小牧南工場史料室に展示されている秋水復元機

 秋水は大東亜戦争の後期、米B29重爆撃機迎撃用に開発されたロケット推進単座の局地戦闘機である。主要目は次のとおりである。

 全幅        :9.50m
 全長        :6.05m
 全高        :2.70m
 主翼面積      :17.73u
  翼面荷重(離陸状態):218 s/u
 翼面荷重(消費状態):95.5s/u
 最大速度      :485ノット

   1万メートルの高空に待機し、来襲するB29を降下しながら銃撃する。兵装は17試30_機銃2門、100発。1万メートルまでの上昇時間3分30秒、燃料の燃焼時間は7分30秒であるから、攻撃終了後は滑空で飛行場まで帰投する。昭和20年7月7日、追浜飛行場で行われた1号機の試験飛行では、上空で燃焼不良を引き起こし、飛行場に着陸の際、滑走路脇の小屋に激突して機体は大破、テスト・パイロットの312空分隊長、犬塚豊彦大尉(70期)は殉職した。終戦までに完成したのは5機に過ぎない。(本項は上掲写真を含め、光人社、平成18年2月刊、牧野育雄著『秋水』によった。著者は設計の段階から秋水の完成に携わった技術者である)。


艦艇

 昭和19年10月の比島沖海戦以来、多くの艦艇は呉軍港周辺に停泊していた。艦船班に属する一部の期友は、卒業式後、表桟橋から機動艇でそれぞれの艦に赴任した。  巡洋艦以上の大型艦に配属された同期は、いずれも1艦10名以上であった。大和にいたっては42名という多数であった。各艦では候補生指導官が指名された。候補生教育という目的があったのである。

戦艦大和
宿毛沖標柱間を全力航走中の戦艦大和 基準排水量 64000トン



戦艦大和の思い出  永瀬四郎
 戦艦大和に着任したわれわれは、副長に着任挨拶をした後、4、5名づつに分かれて 戦闘配置に案内された。俺の部署は中甲板の 「注排水指揮所」 であった。大和には両舷それぞれ内外2本の通路があった。大和では上空に敵機が飛来するたびに 「対空戦闘用意 配置につけ」 が発令される。艦内見学中のわれわれは、直ちにあらかじめ定められた部署に駆けつけねばならない。大和乗艦の4日間の間に、この 「配置につけ」 は10回ぐらいあった。目指す 「注排水指揮所」 に行き着いたのは7回目ぐらいのときであった。今、自分は艦内左右両舷のいづれにいるのか、内外いづれの通路にいるのか、艦首、艦尾いづれの方向に走っているのか全くわからないのであった。右往左往しているうちに 「対空戦闘用意」 の発令で、各部隔壁のマンホールが閉鎖され、他の部署に足止めされてしまうことがしばしばであった。このような状態で沖縄に出撃して一体、江田島で鍛えた3年間の・・・・・などと、ためらいながら、沖縄水上特攻出撃命令を受け、一時的とはいえ死を覚悟した瞬間の貴重な体験が、今日の自分の活力であることを痛感する。

戦艦大和の思い出  奈良一夫
 候補生教育:候補生室はガンルームの隣に設けられ、指導官清水少佐 (副砲長60期)、指導官付臼淵大尉 (副砲分隊長71期,ケップガン)。艦内はぞくぞくするほどの熱気と活気に満ち、甲板士官国本中尉72期、江口、大森各中尉73期は、裸足で甲板棒を振りつつ艦内を叱咤しており、候補生羨望の的であった。大和は海軍部内や陸軍から大和ホテルと俗称され、兵員もベッドと豪華であった。出撃に備え可燃物は撤去。ガンルーム士官、候補生はハンモック使用であった。兵学校三号のように、臼淵大尉の叱声を浴びつつ、ハンモックを担いで甲板上を走らされた。

 退艦:4月5日夜、退艦する候補生と特攻出撃する乗員の運命は全く変わり、生と死に別れる。僅か6時間前、「候補生退艦用意!艦長室前集合」 の寝耳に水の艦内令達に驚く。艦長、副長の説得、副長への嘆願、再度艦長への直訴、ついにこれも不調。候補生は怒号で騒然とした。退艦を間近に控えたときでも候補生は悔しさをこらえ切れない。4月6日0000 燃料搭載開始,0100 B29上空 戦闘配置、0200 候補生退艦 候補生上甲板に整列、能村副長、清水少佐、臼淵大尉、当直将校、甲板士官の見送りをうけ、各候補生は万感こめて握手。すでに横付け中の駆逐艦花月に,長い竹竿を伝って移乗。候補生は花月甲板上から大和艦橋を仰ぎ挙手の礼。大和上甲板の諸先輩に帽を振り別れを告げた。


長鯨の戦い    経理学校第35期 大野義夫
潜水母艦 長鯨 8110トン

 潜水母艦長鯨は昭和20年初頭、瀬戸内海で第6艦隊第11戦隊の旗艦として、麾下の潜水艦の訓練支援に従事していた。艦長溝畑定一大佐(46期)。同年6月には、瀬戸内への米艦上機の空襲が激しくなったため、舞鶴へ回航、同湾周辺で訓練をしていた。

  7月下旬、舞鶴方面への空襲の算が大となったため、同港に停泊中の艦船に対し退避の命が下った。長鯨は7月29日、宮津北方の伊根湾の青島の陰に隠れるように転錨、仮泊した。

京都府北部要図


 明けて7月30日、長鯨は終日、米艦上機の空襲を受けた。0600頃の最初の空襲で 60キロ爆弾が艦橋右舷に命中、中甲板まで貫通した。艦橋は大破して前方に傾斜し、艦橋の内外に於いて約50名が戦死した。艦橋では艦長、副長以下の士官が重傷を負い、航海長は戦死、コレスの航海士、安岡敏樹少尉、前部機銃群指揮官、猶原一正少尉、クラスの庶務主任、石井洋行少尉も戦死した。


伊根湾詳細図 ×印は長鯨仮泊地


 この空襲を皮切りに当日は午前中3回、午後4回の計7回にわたり、艦上機延べ45機の波状攻撃を受けた。敵機は青島の陰から本艦を急襲して東北方向に退避していく。対空射撃によりうち5機を撃墜した。しかし艦上機の機銃掃射による被害は大きく、対空射撃員の大半は戦死傷した。コレスの第二 機銃群指揮官、福下俊幸少尉も、午後の対空戦闘指揮中、被弾して戦死した。こうして約300名の乗組員中、105名が戦死した。長鯨はその夜青島に接岸して擬装作業を始め、そのまま終戦を迎え、同年12月から復員輸送に従事した。



  重巡利根の最期   丸尾義之
重巡 利根 11900トン

 われわれ利根乗組みの候補生20名は、3月30日卒業式後、内火艇で表桟橋を離れた後、江田内湾内に錨泊中の利根に着任した。われわれのほか艦内には予備士官多数がおり、さらに4月上旬、大和を退艦した候補生の一部が加わり、ハンモックをつる場所を確保するのに苦労するほどの混雑振りであった。 

 6月になると候補生の多くは潜水学校、横須賀の諸学校に転出し、残った候補生6名は機銃群指揮官、電測士、通信士として勤務した。私の配置は通信士であった。そして艦は松ヶ鼻に回航し、陸上との間にネットを張り、その上に木を置き、葉をかぶせ、陸上の一部の如く偽装した。戦後、米軍の航空写真を見て、全然カモフラージュになっていなかったことを知った。艦内には農耕班,漁労班を編成、食糧自給の一助とする状態になった。

 このような状況下にあっても乗組員の士気は衰えなかった。毎朝4時には主砲が回り始め各部署とも臨戦訓練、とくに対空戦闘訓練がたゆみなく続けられた。さすが歴戦の精鋭艦であると感心し,その一員であることを誇らしく思った。

 7月24日早朝、敵の艦上機による第一波の空襲があった。引き続き敵襲があり、上空はやがて敵機がまさに乱舞する状況となった。通信士である私の配置は艦橋であったが、やることもなくもっぱら戦況を観察していた。敵弾はなかなか命中せず、最初の命中弾は戦闘開始後1時間もたってからであった。その間、当方の対空砲火も鮮やかに敵機撃墜とはいかず、2日間の戦闘で撃墜は6機程度であった。午後も引き続き後から後からと敵機が来襲して来た。命中弾、至近弾も多くなり、さすがの利根も徐々に戦闘能力が衰え始めた。先ず発電機故障により主砲が動かなくなり、人力操作となった。機銃員多数が倒れ、急遽缶室より人員を上げ、弾倉運搬員としたりした。下部が浸水し、艦も傾斜を示し始めた。午後4時頃、敵襲が終わった。艦内は惨憺たる状況であった。戦闘能力回復の検討と重傷者の陸上搬出が行われ、対空戦闘の一日が終わった。

 4日後、7月28日早朝から、再度敵機来襲が始まった。主砲は動かず、高角砲は手動照準、頼りになるのは機銃のみという状況であった。乗組員全員精一杯頑張ったが、被害は刻々増し、最期は相手の為すがままという状況に立ち至った。止めを刺されたのは午後にやってきたB−24の高高度よりの爆撃であった。命中弾こそなかったが、至近弾多数で、舷側に亀裂が入り、艦は大きく傾き海底に擱坐して戦闘は終わった。

 乗組みの期友は皆無事であった。機銃群指揮官が2名おり、部下はほとんど戦死したが、彼らはかすり傷一つ負わなかった。遮蔽物のない台上で指揮しながら無事であったことは奇跡に近い。私の配置の艦橋は空爆の主目標であり、命中弾があってしかるべきであるが、一発も命中しなかった。

 利根の当時の乗組員は1000名弱であったが、戦死者、重軽傷者は合わせて600名を超えた。高角砲要員、機銃要員、機関部員に被害が多かった。生死を分けたものが何であったかわからない。この戦闘で私が学んだものは、人間いざというときにはじたばたしてもどうにもならない、自己の責任の最善をつくすことであるという人生訓であった。


回天

 卒業式後、第二特攻戦隊司令部付を命ぜられて、機動艇で徳山湾の大津島基地に赴任した者は35名であった。彼らは第11期士官講習員として回天搭乗員講習を受けた。在校中、特攻兵器回天について噂話は聞いていたが、実物にお目にかかるのは皆、これが始めてであった。オリエンテーリング期間が終わって、5月上旬、各基地に配属された。光、大神(オオガ)、大津島、平生(ヒラオ)の各突撃隊であった。後に潜水学校、第三特攻戦隊司令部付などから若干名がこれに加わる。

(この図は鳥巣建之助『人間魚雷』(新潮社)より借用した)



回天戦と私  木村二郎
 われわれ同期の桜35名は、クラスの羨望と期待を担って、4月1日、徳山湾沖の大津島基地に着任した。回天は機密兵器であったため、その全貌を知らないのが実情であった。着任直後、実物を手で触り、ハッチから中を覗いて見てはじめて、これが自分の死処であることを実感した。


 同基地での訓練といっても、九三魚雷の分解組み立てが主であって、われわれにとっては学校時代の復習のようなもの。ただ、自ら組み立てた魚雷に試乗希望者がいなかったため、私自身が同乗する羽目になった。案の定、発射直後,気筒爆破を起した。+浮力だったため沈没は免れた。

 5月はじめ、われわれクラス (舞鶴を含め50名) は四つの基地へ分かれていった。私自身は平生基地を希望し、そこへ配属された。訓練自体は航法訓練に始まり襲撃訓練まで約20回で一人前とされた。私は14回で、後1ヶ月位で出撃予定者名簿に入れるかと思っていたところ、終戦になった。平生基地では毎日10本程度しか訓練できない。搭乗員は数百名も控えているのである。連日神経をすり減らしていた。戦後、『回天特別攻撃隊』 の記録によれば、昭和19年11月、ウルシー攻撃以来終戦まで、潜水艦出撃本数148本、そのうち潜水艦より発射を確認45本、母艦とともに海没と推定35本であった。その間、回天搭乗潜水艦の沈没8隻、811人の被害を受けている。終戦時使用可能艦は8隻であった。潜水艦隊の損害の予想外の大きさに気付く。

SOS  松村清行
 大神基地での出来事。
 別府湾で空母 「海鷹」 を標的艦とする航行艦襲撃訓練が実施された。私はベテランの予科練出身の一飛曹が操縦する艇に、同乗者として乗り込む。訓練は通常2人乗りで行われる。同乗者は前部浮室鋼壁を背にして操縦者と対面して座る。
 「発進用意!」
 電動縦舵機起動 ー 操空塞気弁全開 ー 縦舵機排気弁全開 ー 潤滑油導水弁全開  ー 燃料中間弁全開 ー 起動弁全開 ー 調速20ノットー深度10メートル
 「発進用意よし!」
 ガタンとハッチは閉鎖され俗界と断絶。ゴトゴトと軌道の上を運ばれ、発射場のスロープを滑って、フワリと水面下に浮漂。横抱艇に抱えられて発進予定地点に運ばれる。
 「発進!」
 特眼鏡を上げて、目標の距離、速力、方位角を推定。一旦潜入、目標を狙いやすい地点に移動。やがて狙撃地点に到着、浮上、特眼鏡を上げて目標を再観測。そして撃角を整え、さらに潜入。調定深度15メートル。そして突入。 これで空母艦底を潜ればすなはち命中である。命中当否は夜の研究会で講評、判定される。

  私はギョットした。深度計が急に上昇しはじめたのである。空母の喫水は10メートルほどである。艦底を通過するには15メートル以上の深度を必要とする。激突してしまったら訓練にはならない。操縦者は特眼鏡で眼窩鼻骨を砕かれ,同乗者は後頭部を前部気蓄器の鋼壁にブッつけて即死だろう。走っているうちに横舵が変調を来たし、急に仰角がついて、魚雷が少しづつ上昇していたのだ。操縦者は一気に深度を下げる。グーンと深度が下がる。衝撃! 岩盤を掠めたか。夢中で仰角を取る。上がる。何もしないのに勝手に下がる。「シマッタ! イルカ運動だ!」。搭乗員の恐れるイルカ運動とは、魚雷が上下運動を反復して制御不能に陥ることをいう。  私はついに決断した。

 「取り舵ッ!停止ッ!」
  操縦者は操縦桿を起し、機械は停止し、轟音はやんで静寂の世界となる。深度が下がる。20,21,22・・・・・30,31・・・。海底に激突か。戦慄が走る。何かが狂っている! 再び叫ぶ! 

 「応急ブロー!」
 シューンという音とともに駆水頭部から排水が始まり、魚雷は次第に仰角を取り、ついに駆水頭部を水面上に出して海水中に直立する。この露出部分を追蹤艇が有効時間内に発見してくれれば助かるのである。有効時間とは魚雷内に酸素がある間である。2人乗りの場合、10時間が限度といわれる。  やがて潜水夫が頭部を金槌で叩く。「カン・カン」 という音を聞いたときには 「助かった!」 という思いに全身の緊張が解ける。事故を起こしてから1時間半後のことであった。

 7月4日、大津島基地でクラスの山本孟が訓練中殉職した。隠密潜入訓練中、浮上の際、訓練海域に迷い込んだ漁船の船底に衝突、浸水したものである。不運というほかはない。


蛟龍



 大東亜戦争の開戦劈頭、真珠湾在泊の米艦艇を攻撃した5隻の特殊潜航艇のことは、われわれ世代のものは誰でも知っている。この特殊潜航艇は、翌昭和17年5月にはオーストラリアのシドニー湾とマダガスカル島の英軍港ディエゴスワレス湾を奇襲した。正式には甲標的と称し、一般には特潜と略称された。目標港湾の湾外まで親潜水艦によって運ばれた二人乗りの小型潜水艇であった。下の写真は真珠湾を攻撃して湾外に沈没した1隻で、戦後米海軍が引き上げて日本に返還したものである。現在は江田島の海上自衛隊第一術科学校に展示してある。

 その後、戦勢の変化により用兵思想も変わって、親潜水艦に運ばれて敵基地を攻撃する方法は取りやめとなった。かわりに局地防衛が主目的となった。使用方法が変わればこの潜水艇の要目性能に変更が加えられるのは当然である。初期の甲型から乙型、丙型を経て昭和20年初頭には丁型が出現した。5人乗りで59トン、水中14ノットの小型潜水艦のようなものになった。わがクラスでは第16期79名、第18期19名がここに配属された。

甲標的甲型 背景は教育参考館
甲標的概念図

大浦突撃隊   柴田淳一
 最初は柳井潜校で蛟龍の構造と性能の学習や、図上襲撃訓練、海岸の甲標的で蛟龍操縦の模擬訓練を行った。うっとうしい梅雨と空腹に耐えながら、兵学校の入校教育をも凌ぐほど猛烈に頑張った。

 大浦基地では蛟龍の増産や整備も行われ、活況を呈していた。岩壁には新造の蛟龍が並び、訓練に出る艇、帰投する艇で賑わっていた。2,3日ごとに何隻かが前線基地へ出港し、残るものは姿が見えなくなるまで手を振り武運を祈った。

 第16,18期生の宿舎は大迫で、そこには蛟龍用桟橋があり、航海や襲撃訓練の基地でもあった。500トンの商船津久茂丸を標的艦として、おもに情島と亀ケ首を結ぶ線の東方を走り回った。司令部は大浦にあり、木造2階建てであったが、重要なものは皆地下壕に移し、通信士の私は壕内に居るときが多かった。8月末頃、すべての蛟龍を呉のドックに回航したのが最後の航行となった。この基地では74期は多数の殉職者を出したが、特攻に出撃の順番は来なかった。9月20日頃、最後の始末をして、それぞれの再出発に向け、大浦基地を去った。
倉橋島要図  ×印 音戸国民宿舎 ▲印 大浦基地

音戸国民宿舎からの眺め 正面左寄りの黒い島影は情島
前景左は呉市音戸町 中央は音戸瀬戸 右は倉橋島大浦崎
(この写真は小宮山玄二撮影)


小野雄市の殉職   伴野丈夫
 小野君の殉職は広島原爆投下の前日であったのでよく覚えている。当時、期友約80名は16期艇長講習員として特殊潜航艇で日夜訓練に励んでいた。当日午前中に「訓練艇浮上せず」の悲報が入り、救助作業が発令された。小生は救助クレーン船に乗り組み、亀ヶ首沖の現場に急行した。当日作業は難行、翌日原爆投下、何かピカッと光ったのを覚えている。その日、夜遅く遺体を収容したが,本田は司令塔で、小野と宮永は縦舵、横舵の位置で、最期まで故障復旧に努力した姿を見て、涙を堪えることが出来なかった。小野君は寡黙誠実の人で皆に好かれた。40年後に君の追想を記しつつ、はるかにご冥福を祈る。

 

海龍

 蛟龍と同様の小型潜水艇海龍は昭和20年4月から大量生産が始まった。わがクラスは各地の学校、実施部隊から20数名がこれに配属された。排水量は蛟龍の60トンに対し20トン。全長は蛟龍の27メートルに対し19メートルであった。乗員も前者の5名に対しこれは2名。甲標的が大型化するのに対し、小型で小回りの利く艇が求められたのであろうか。それにしては水上速力7.5ノット、水中速力9.8ノットの鈍足が気になる。兵装は小型魚雷2本を艇外に抱きかかえるばかりでなく、艇首に600キログラムの火薬を装填する。超強力特攻兵器である。

昭和53年5月熱海市網代沖で引き上げられた海龍
 
海龍   栗原達夫
 海龍時代のある日、搭乗員総員集合があり、相模湾に向かい敵大船団北上中、明早朝出撃の命令が出た。私の艇の整備担当の機関兵曹は 「明日は万一機関故障があっては申し訳ないので、私がツリムの代わりになって艇長の後ろのスペースに乗っていきます」 と申し出てきた。言葉少なく謝絶したが、強い海軍の象徴の一つと感激した。年齢から見て家族もあるのだろうに、誰にもできることではない。油壺の第11突撃隊では昭和20年7月30日、痛恨の出来事があった。(編集部注:昭和20年7月30日、東艇は城ヶ島沖にて遭難、東外吉と予科練出身の艇付が殉職した。このとき遭難地点で救助にあたっていた機動艇が、米艦上機の機銃攻撃を受けて乗組員数名が犠牲になった。救助を待つ東艇にとっては不幸な事故であった)。

弟のこと   ひがし 初枝(外吉姉)
 弟外吉は何分貧しい農家に生まれましたから、今の人たちのように家族で遊んだこともございません。幼い頃は、農繁期ともなれば、両親の帰りが遅いので待ち草臥れて、夕飯も食べずに寝てしまうこともありました。
 中学に行ってからは、夏休みになると友達と船で近くの河北潟へ行き、釣りや水泳をしていたようです。弟の短い生涯で、あの頃が一番楽しかったのではないかと思います。
 時々一人で将棋をさしていましたが、死ぬときも一人、敵もいないのに訓練中に死んだ無念さを思うと可愛そうでなりません。その上、多くの方を道連れにして、多くの親御さんを悲しませ、申し訳なく、悲しく胸が痛みます。


震洋

 震洋は爆装したモーターボートである。艇首に250キロの爆薬を装備して敵の艦船に突入する。震洋は第三特攻戦隊に所属し、大村湾の川棚に訓練基地があった。わがクラスの20名が卒業後ここに赴任した。震洋は、戦争の中期に開発された兵器で、わがクラスがこれに参加した昭和20年には、すでにアジア各地に実戦配備されていた。
航走中の震洋

川棚震洋隊の思い出    山口重松
 3月30日、卒業、翌日長崎県川棚着。始業式後5月16日まで震洋艇長訓練受講。震洋艇の船体はベニヤで、トヨタのガソリンエンジンを積み、出撃時には250キロの爆装をした。夜間訓練が多く、その上、雨天に機関が故障して曳航してもらったり、事故で翌日漸く帰投した艇も出たりした。今の世界に誇る日本車のエンジンに較べ、当時のそれは故障が多かった。

 5月24日、25日、鹿児島空、三重空より第15次震洋隊搭乗員予定者(予科練出身)600名川棚到着、分隊編成後、私たちも教官として教育・訓練に当たる。7月25日終業式後、部隊編成。

 私の配属は第144震洋隊、近松(73期)部隊で、艇隊長は高谷(故人)、新井、藤山(予備学生2)、山口。搭乗員約50名、他に整備・基地などの隊員を含め計180名弱で編成。搭乗員以外は基地(天草島富岡)に先発配置されていた。

 7月4日、第二特別基地転出の期友7名を見送る。近松部隊は基地配置寸前に終戦となる。


陸上砲台

 わがクラスが卒業後、砲術学校に赴任したのは127名であった。その後艦艇その他から補充されて人員はさらに増えた。戦勢の急激な変化によって、本土決戦の機は次第に近づいて来た。本土決戦要員の拡充が必要であったのだ。わが期の砲術の教程は7月中旬に終わった。7月15日に海軍少尉に任官すると、すぐにそれぞれの配置に散っていった。その中に陸上砲台に赴任した10数名がいた。おそらく卒業後数ヶ月で、艦艇勤務もやらず、陸上砲台に行くのは、兵学校開校以来のことであったろう。


敵機撃墜    大谷宏雄
 私は昭和20年7月17日、佐世保湾口にある高島の、高角砲台の射撃指揮官として着任した。部下は先任下士官以下40数名で、皆私より年上、なかには充員召集でやってきた親父ぐらいの年齢の老兵もいた。毎日の空襲で対空戦闘の日が続いた。そのうちに敵機は佐世保空襲の後、湾口で編隊を組みなおすことがわかってきた。そこで測距儀で湾口までの正確な距離をあらかじめ測定しておいて、そこをめがけて、12.7糎高角砲2門による弾幕射撃をした。もくろみは図にあたり、P51戦闘機の一番機に命中して撃墜することができた。弓張岳の射撃指令所にこの結果を報告したところ、砲術長よりお褒めにあずかった。若造に何ができるかと思っていた部下の態度も、これを機に変わってきた。後日、褒賞品を取りに来るようにとのことだったが、公用使を出せないまま日を過ごすうちに終戦となり、残念なことをした。

P51 ムスタング

 終戦後のある日,米軍の将校が突然、砲台にやってきた。いろいろと訊ねるので下手な英語で応対した。米戦闘機を撃墜したのが当砲台であることを知っているようであった。小生も兵学校出身だと言うと急に態度が改まり敬意を表してくれた。彼もアナポリス兵学校卒業だった。

 戦争中は砲台の山から下りたことがなかった。終戦後はじめて山を下りて村に行ったところ、指揮官ということでものすごく歓待された。あの頃、お米は貴重品だった。砲台の保管していた米を村に放出してとても喜ばれた。(左の写真は河出書房新社発行『世界の偉大な戦闘機A』より借用した)


兵器学生

 兵器学生の養成所は房総半島館山の近くの洲ノ崎海軍練習航空隊に開設された。昭和18年6月のことであった。大東亜戦争は開戦後すでに1年半を経過し、わが方の頽勢が漸くあらわれつつある時期であった。ミッドウエイ海戦や南太平洋海戦の戦訓、あるいは基地航空隊の戦訓から、わが航空機に搭載された兵器の時代遅れや、頻発する故障が問題になってきていた。そもそも航空戦は、飛行機の機体・機関、搭乗員、搭載兵器の三位一体で戦われるものだ。機体・機関がすぐれており、搭乗員の技量が卓越していても、兵器の性能が悪ければ、航空戦に勝ち目はない。従来、整備スタッフや一部の技術士官にまかさていた搭載兵器の改良・整備が、戦争も中期に入って漸く海軍首脳部の関心事になってきたのであった。
 次の3点は、特に改善を急がなければならないものとされた。

・故障の多い機銃の改善。
・航空写真を判読するスタッフの増員。
・夜間雷撃機へのレーダーの搭載。

 かくて航空兵器に関する専門官の養成のため、昭和18年6月、洲ノ崎航空隊に専門の養成所が設けられた。写真隊長内海通吉大尉(68期)の戦後の述懐によれば、昭和19年9月現在、士官室士官60名、下士官兵約3000名の大所帯であったという。

 兵器学生とは航空兵器整備学生の略称である。わがクラスの卒業生40名は海軍の輿望を担って、第4期兵器学生として昭和20年3月末ここに赴任した。兵器学生のカリキュラムは操縦理論、航空燃料、気象学などの基礎教程から、搭載兵器の構造、理論、機能を極める術科教程に及ぶ。履修期間は10ヶ月である。教程終了後は、各航空隊、航空艦隊の兵器整備分隊長として重宝がられた。わがクラスの属する第4期学生は履修途中で終戦となり、その能力を十分に発揮することなく終わったのは残念なことであった。各期別の学生人数は次表のとおりであった。


洲崎海軍航空隊    木村正信
 われわれの指導官は釘宮正学生科長(少佐、61期)、宮島厳大尉(67期)、鹿村和則大尉(71期)、岡本時夫大尉(72期)であった。鹿村教官には課業も実験も見学も、ほとんどすべての日常まで、最後まで面倒をみていただいた。

 先任だった重富俊也君のように特に志望した者もいたようだが、江田島から来た者の中には、私を含めて兵器整備学生の辞令に気を落としている者もかなりいた。それが副長曽我義治中佐(49期)の兵器整備に対する理念や、宮島教官からどうしてもわれわれが何とかしなければならない現状を聞くに及び、気を取り戻し意欲に燃えるようになった。戦局は今や緊迫し、どのように4期生を処置すべきか悩んだと最近鹿村さんからお聞きした。われわれは結構詰め込まれた。

 教官のお人柄もあったのか、風光明媚の館山湾に臨み、季節もよし、われわれは多忙な中にも楽しい毎日を過ごした。ことに食事は新鮮な魚つきで米もうまく、兵学校とは格段の差があった。写真術を教わってカメラを買い、航空フィルムの切れ端を使い、不自由な中にも現像や焼付けを楽しんだ。土曜日の夜などは洲ノ空の裏山に掘られた大地下壕の中で映画があり、空の要塞、オーケストラの少女、ディズニーの漫画や西部劇などを見た。休日に立ち寄る水交社には先輩はほとんど居らず、居心地がよかった。

 機上訓練中、20ミリ機銃で標的を狙うが、自機の尾翼を射ってしまったり、ブレた偵察写真を撮ってしまったりと失敗の多い訓練であった。6月下旬、藤沢の電測学校で電探を習ったのが学習の最後であった。後は汽車の切符の手配が窮屈ななかで、見学を精力的に行った。平塚の火薬廠では敵機の機銃掃射を逃げ、富士フィルムでは国産のカラーが米国のものよりだいぶ劣る認識を持ち、日本光学でレンズ磨きや距離測定器を見、中島飛行機ではダイムラーの発動機に興味を持った。横須賀の空技廠で秋水の試作機を見て意を強くしたが、数日後には横須賀航空隊で終戦の録音放送を聞いた。

 混乱を恐れた鹿村教官に引率されて、急遽、疎開先の豊房村へ帰り、身の回りのものを除いてどんどん燃やした。過分の退職金と毛布や缶詰などを貰って、それぞれに帰郷の途についたのは8月27日頃であった。

洲ノ崎海軍航空隊の思い出    村山圭一
 日本海軍は航空戦力の重要性を認識し、機体の性能の向上、エンジンの整備には早くから尽力してきた。しかし、これに搭載する兵器の開発整備には本来兵科将校の判断が必要なのであるが、現状は技術士官や機体整備員任せになっていた。兵器学生制度の発足は、この現状の打開のためであった。われわれは第4期生として赴任してきたのであるが、第1期生から第3期生まではすでに各航空隊に配属になり、少尉、中尉で兵器分隊長として活躍していた。

 学生は、航空機に搭載する機銃、爆弾、電信機、魚雷、航空写真機、電探等機種ごとの性能、目的に応じた使い分け法などを詳細に勉強した。勉強は座学だけでなく、館山空、横空、藤沢空での実地訓練、工場見学など盛り沢山であった。卒業して実戦部隊に出たときのためにと、機種、性能などをポケット型のノートに詳細に記載していたが、終戦のとき、涙と共に一切を焼却してしまった。これらはいずれも当時のハイテクである。今見たら面白かろうと思う。それにしても兵器学生制度が10年早く発足しておればと残念でならない。


終戦時配置

 冒頭に掲げた兵学校卒業時の配置と、下表に示された終戦時配置とには著しい乖離がある。たとえば卒業時242名の艦艇乗り組みは、終戦時には50名に減っている。卒業時55名の特攻戦隊は終戦時には183名に増えている。この183名の中には実質特攻であった秋水の98名と中練特攻の46名、合計144名が入っていない。これらをあわせた実質的な特攻は327名に上る。これらの数字は戦勢の急速な悪化を物語るものである。





戦死者・殉職者

次へ  トップページへ