74期の軌跡 その三

戦後処理

戦後処理の概要

 戦後処理のために、400余名のクラスメイトが充員召集を受け、復員輸送、機雷掃海や陸上警備等の職務に従事した。

復員輸送と賠償艦艇の引渡し

 わがクラスメイトは復員船の航海士や通信士、甲板士官等の配置で復員輸送に従事した。約2年で復員輸送はほぼ終了し、復員輸送に従事した海軍艦艇や繋留機雷掃海に従事していた海防艦などは賠償艦として米国、英国、中華民国およびソ連に引き渡された。これらの艦船乗組みのクラスメイトの大部分は復員して一般の実務につき、また、軍学校出身者1割制限(編集部注)の悪条件の下で大学に進学した。一部は感応機雷の掃海部隊に転出した。

機雷掃海

 終戦時、日本の周辺海域には、日本側が敷設した繋維機雷と米側が敷設した感応機雷があって海上交通を阻害していた。この除去が戦後処理の重要な業務であった。

 繋維機雷の掃海には海防艦などがあたった。感応機雷の掃海には木造の哨戒特務艇と駆潜特務艇があたった。その掃海の成果を確認するのには試航船が従事した。いづれの艦艇にもクラスメイトが乗組員として参加し、周辺海域および港湾の安全確保に貢献した。

朝鮮戦争に掃海協力

 昭和25年6月、北鮮軍は韓国南部まで侵入した。日本占領軍を主体とする国連軍は北鮮軍の背後に上陸作戦を企図した。そこで上陸海域に敷設された機雷を除去するため、日本政府に掃海部隊の派遣を要請してきた。この要請を受け、日本の掃海部隊(掃海艇20隻、試航船1隻)が元山、群山、仁川、海州、鎮南浦の掃海を行い、上陸作戦の成功に寄与した。この掃海部隊にはクラスメイトが艇長、乗組み、幕僚として参加した。

 日本掃海部隊の成果は、日本占領軍に高く評価され、講和条約締結にも好影響があったといわれている。

小笠原捕鯨

 戦後のわが国の食糧事情は劣悪で、特に蛋白質が不足していた。これを補うため昭和22年はじめ、小笠原列島周辺で捕鯨をすることになった。輸送艦3隻が捕鯨母船に改装され、大洋漁業、極洋捕鯨に貸与された。この捕鯨は約2ヶ月間実施された。各捕鯨母船にはクラスメイトが航海士として乗組み活躍した。

(穂積セ彦記)


編集部注:

進学制限(10%)          丸山 摂

 倉敷航空隊の海軍保安隊より復員したのは、終戦翌年の昭和21年3月であった。実兄二人も復員しており、幸運な再会を両親とともに喜びあった。大学受験ができるという情報があり、何一つ荷物も持たず、身体一つで帰省したのだった。翌日から受験手続をするのが精一杯で、何の受験準備もせず受験した。義兄のすすめに従い、京大農学部の農芸化学科を受験した。職業軍人は定員の1割以上は採用しないという噂を耳にしていたが、受験場にいくと、海軍、陸軍関係の名残りのある服装の受験者が多数おりがっかりした。

 合格発表の日、義兄が使用していた「帝国大学」の角帽をポケットに入れて見に行った。帰りは、海軍士官の紺のコートに、飛行半長靴、それに角帽という格好で帰宅し、皆に笑われた。当初は気がつかなかったが、定員30名なのに、74期だけでも5名いた。問いただしていくと、海軍学校卒業者が15名、陸軍関係が2名で、職業軍人といわれるものが農芸化学科に17名もいるではないか。驚くと同時に、なぜ1割制限があるのにこんなことになったのか不思議であった。後日、海軍に理解のある教授が 「優秀な成績の海軍学校卒業者を、1割制限で不合格にするのは惜しいので、学部全体で1割という解釈で押し切った」 と言われるのを聞いた。


戦後処理の詳細

復員輸送

 戦後処理の大きな課題の一つに外国にいる日本人の引き揚げがあった。昭和20年(1945)8月15日現在、外地にいる日本人は軍人約350万人、一般人約310万人合計約660万人であった。彼らの引き揚げには残存艦艇132隻18万トンと貨物船55隻が当てられることになり、早くも同年9月10日、第一船、高砂丸がカロリン諸島のメレヨン島向けに内地を出港した。この島は食料不足が最も深刻であるとされていた。12月には陸軍省は第一復員省と改称、海軍省は第二復員省となり、これら二つの政府機関は引き揚げ業務に専念することになった。
葫蘆島埠頭

葫蘆島埠頭引揚者の列
                                                                     終戦当時艦艇に乗り組んでいたクラスメイトは、引き続き艦艇に残って復員輸送の業務をやるか、それとも故郷に帰って、一市民としての生活を始めるかの二者択一を迫られた。故郷に帰っても職がない。残って復員輸送に従事すれば、とりあえず食うには困らない。かくて艦艇に配属された多くの期友が前者を選択した。故郷に帰ってしまえば、兵学校で2年数ヶ月も掛けてみっちり仕込まれた航海の理論と技術はパーになってしまう。これを実地にやってみたいという誘惑もまた強いものがあった。   この復員輸送の完了は当初4年以上かかるものとされていたが、昭和21年(1946)になって米国が大量の船腹を提供してくれたために、1年数ヶ月の短期間で済んだ。それにしても、私たちが艦内で聞く引揚者の苦労は言語に絶するものであった。とくに葫蘆(コロ)島からの満州引揚者の苦労はひどかった。葫蘆島というのは渤海湾に面する中国遼寧省の海港で、地図で見ると秦皇島の上あたりにある。満州全土に散らばっていた日本人はここに集められて復員船によって日本に帰国した。彼らの苦労話はノンフィクションや小説の形で今に語り継がれている。


水葬     榎山博二(1)
 当時の私の職場、特別輸送艦「柿」は満州葫蘆島の岩壁で引揚邦人を満載しました。北の奥地からソ連軍に追い立てられ、命からがら辿り着いた人たちです。男女の区別もわからぬほどに汚れ、疲れ切っていました。栄養失調で内地までもつかどうか分からない幼い男の子もいました。甲板士官の私は念のため作業員を使って、埠頭の隅にあった、かなり重いコンクリートブロックを艦内に積み込みました。

 港外に仮泊して一夜を明かすことになり、その夜は浴室全部を開放し、乗客は交替で、長い旅路の垢を洗い落としました。朝見ると皆すっかり綺麗になり、清潔な衣服に着替え、女性には薄化粧をしている人もいました。表情もすっかり明るくなり、昨日とは別人の感じでしたが、あのかわいそうな子は、出港した日の午後、ひっそりと息を引き取りました。少しの毛髪と爪とを父母の手に残した小さな遺体は、先任衛兵伍長の指図で真新しい毛布に包まれ、コンクリートブロック3個をくくりつけ、艦尾に長く突き出した2本の太い竹竿の先に吊るされました。  やがて白い包みは、艦長以下手空きの士官や乗員、引揚者全員の見送るなか、芹野富雄先任将校(71期)の合図で切断された吊り索の一端を残して、泡立つウェーキのなかに消えました。艦は大きく一周し、吹鳴した長4声は、後甲板に整列した人々の胸に染みとおり、そして夕闇迫る海面に拡がってゆきました。両親は艦長に深々と葬儀のお礼を述べ、私はあのポイントを緯度、経度と帰港地博多からの方位・距離で示した紙片を、「お子さんが眠っている場所です」 と言って両親に手渡しました。

「柿」と同型のT型駆逐艦


産声(うぶごえ)    榎山博二(2)
 満州の葫蘆島から引揚邦人を乗せて、黄海北部を南下する特別輸送艦「柿」は、ひっそりと静まりかえっていました。私は深夜直の艦橋に立って、左右に分かれる夜光虫の青白い帯をぼんやり眺めながら、夕方水葬になった幼児のことを思い出していました。暗闇のなかで突然、伝声管が怒鳴りました。「当直将校!赤ん坊が生まれそうです。機関科に、お湯を出すように言ってください。軍医長からです」。看護長の慌てふためいた顔が目に浮かびます。私は機関科にその旨指示し、艦長に報告しました。

 T型駆逐艦「柿」の竣工以来、艦内で始めて産声を上げた赤ちゃんが女の子と知ったのは朝食の食卓でした。田中嘉平治艦長(51期)は、定めに従って出生証明書を交付し,さらに両親のたっての願いで名付け親を引き受けられました。付いた名前は「柿枝」。士官室一同、内心おやおやでした。ガンルームの住人3名、北原健吾通信士、山崎敏一機関長付、それに甲板士官の私は、口々に、柿枝ちゃんが年頃になったら、どんなにわが名と,それを付けた見知らぬおじさんを、恨めしく思うだろうと話し合ったものでした。

 入港後の提出書類を起案した主計長が、内容を艦長に報告して言いました、「結局、葫蘆島での乗艦者数と、博多での退艦者数は同じになりました」。誰かがそっと 「アカクロなしか・・・」 とつぶやきました。

 柿枝さんも元気でいれば50歳に近い熟年ざかり、今となってみると 「柿枝」 もなかなかユニークで、可愛い名前だ、などと思う近ごろです。(編集部注:この文章はクラス会誌 『江鷹』 の平成7年発行 『卒業50周年記念誌』 から転載したものである)。


賠償艦艇の引渡し

 繋留機雷の掃海も復員輸送も、昭和22年(1947)前半までに終了した。これらの役務に従事した日本海軍の残存艦艇は、英、米、ソ連、中華民国の4カ国に賠償として引き渡されることになった。同年6月から11月の間に駆逐艦を初めとする艦艇125隻が、これら4カ国に引き渡された。引き渡される艦艇は6ないし8隻の戦隊を組んで、指定された港まで回航された。回航員を収容して日本に連れ戻すために、給糧艦の荒埼、白埼、早埼が当てられた。これらの給糧艦には輸送指揮官が座乗して旗艦としての役目を果たした。内地最終港、佐世保において、各艦の航海長は旗艦に召集され、旗艦の航海長から詳細な航海計画を示される。回航戦隊の各艦は毎日黎明、薄暮の天測結果の艦位を旗艦に報告する。 それは戦時中の艦隊行動がそのまま実行されたものであった。わがクラスの連中は、これらの艦艇に航海士、通信士、甲板士官として乗り組んでいたが、戦争が終わって始めて、海軍の艦隊行動のいかなるものかを体験することになった。
給糧艦 早埼

 英国はシンガポール、米国は青島、ソ連はナホトカ、中華民国は上海が引渡し港であった。旗艦を勤めた給糧艦は、戦争中、作戦中の艦船に糧食を供給する艦で、生鮮食品や肉類を貯蔵するための設備、すなはち冷蔵庫や冷凍庫の設備が完備していた。艦艇を引渡した復航では、これらの冷蔵庫、冷凍庫は開放されて回航員の居住区とされた。シンガポールから内地に帰る航海は、熱帯、亜熱帯の海の、それも夏季の航海であった。其の暑いことは言語に絶する。皆、露天甲板で寝たものだ。回航員は引揚者の苦痛を身をもって体験したのであった。引渡された艦艇のうち28隻は日本の造船所で解体された。この賠償艦艇の引渡しをもって、明治初年から80年、先人が営々として築き上げた光栄の日本海軍は、ここに完全に消滅した。


賠償艦艇引渡しの実際      小野儀一
 強運の駆逐艦として有名な「雪風」は中華民国引渡しと決まり、私は5月15日付けで航海士として乗艦した。回航先が上海となって、われわれは引渡目録の作成に着手した。これが実に厄介な作業であった。儀装品、備品、消耗品と調べ上げ、品名、規格、数量、摘要などの欄に和文・英文で記入し、ガリ版印刷で2、30部作るのに意外にてこずった。7月1日、上海回航の1隊は佐世保を出港した。7月3日、揚子江に入り、午後4時上海のブイに繋留した。このとき私はカッターで繋留作業に当たったが、流れが凄まじく速かったことと、溺死体が二つ傍を流れ去ったのを覚えている。

7月6日朝、雪風は桟橋に接岸して引渡式を行った。私は艦橋後部の旗甲板に中国水兵と二人で待機して、両国国旗の降下掲揚の役に当たった。さて、式後の引渡しは言葉が分からないため、時間のかかる作業となった。名札の番号と目録とを付き合わせての確認に苦労した。とにかく相手は数量に拘泥した。たとえば「工具一組」と記載して、品数が数個ある場合、なかなか納得してくれなかった。豊田穣先輩の 『雪風は沈まず』 に、雪風の引渡しの様子が書かれてあるが、私は引き渡し現場にいて、感傷に浸っていられるような雰囲気ではなかった。
強運の不沈艦 駆逐艦雪風

 この後、7月10日駆逐艦「桐」に乗り組み、24日、 横須賀を出港し、佐世保経由でナホトカに向かった。艦長は磯辺大尉、航海長は雪風同様中島先輩で、航海中は艦橋で3人で駄弁りながら、穏やかな日本海を北上した。佐世保を出て3日目にナホトカに到着した。初めて見るナホトカ港は粗末な港湾施設で、周辺には殺風景な丘にバラックのような住宅がが点在していた。引渡し作業は雪風の場合と異なり、細かい物品のチェックなどはなかった。若い士官が航海計器の取り扱いを実に熱心に聞き、とくにジャイロコンパスの使用法を繰り返し質問した。日本からの通訳が一人乗っていたが引っ張りだこで多忙を極めていた。なにしろ 「ダアダア」 と 「ニエット」 の二言で済まそうというのだから苦心した。

 ソ連の国情は当時かなり窮乏していたらしく、水兵たちは実にひどい服装をしていた。われわれの腕時計を欲しがったり、タバコの巻紙用に雑誌を奪い合っていた。忘れられない出来事として、われわれが士官食堂を離れて、艦橋でソ連士官連中と話をしている僅かの間に、ソ連の水兵がわれわれの昼食を全部食べてしまい、昼食抜きになるという珍事件があった。長居無用のナホトカを後にして、3日後に舞鶴に帰って来た。

 第三回目の引渡しは駆逐艦 「春月」 のナホトカ回航だった。8月25日、海防艦48号、輸送艦13号などの戦隊の最後尾で佐世保を出港した。この航海は各艦が次々にエンジン故障を起し、雨と霧にたたられて予定より遅れた。28日早朝、北緯40度を越えて当直に立つと冬の寒さだった。29日朝ナホトカに到着、桟橋に接岸するとソ連水兵たちが来て、艦内を物色して回った。艦橋の双眼鏡から、労働に赴く日本人の列が丘を進むのが見えて、やりきれない思いに胸が詰まった。午後、両国乗組員で出動訓練を行った。 またジャイロコンパスの使用説明を求められ、艦底の転輪室に入って何度も取り扱いを教えた。上のほうから、「誰もいないか、引き上げるぞ」と言う声がして、あわてて甲板に上がった。「荒埼」に飛び移るように乗って、夕方のナホトカを後にし、30日午後、舞鶴に帰って来た。

 最後は「掃海特務艇18号」の青島回航で、9月5日横須賀出港、11日佐世保着、ドックで整備をした。父親のような年配者の艇長、機関長と食堂兼寝室の狭い部屋で起居を共にし、私は毎日英文と和文の「引渡目録」作成に専念した。26日佐世保出港、荒天続きの黄海を、小艇が波に翻弄されのろのろと進み、30日午後、青島に到着した。先着の 「花月」 に横付けして、直ちに回航員引揚用船に乗って青島を離れた。

 賠償艦艇引渡し業務は6月から始まり9月で終了した。過去の栄光を受け継いできた日本海軍艦艇の後始末にしては、なんともあわただしく儚いものであった。


機雷掃海

繋維機雷の掃海
 大東亜戦争中、海軍は軍港、主要港湾や海峡に、敵潜水艦の侵入を防ぐための繋維機雷を敷設した。昭和18年半ばからは大陸航路、南方航路の確保のため東支那海、黄海などに機雷堰を設けた。敷設状況は下表のとおりである。当時の日本の機雷は性能が悪く、且つ、水深30メートル以深にしか敷設されていなかった。そのため、昭和20年6月8日には、機雷探知機を装備した9隻3群の米潜水艦に、対馬海峡を潜航突破された。同月24日、宗谷海峡を浮上突破されるまでの17日間に、わが艦艇・商船27隻、5万数千トンが撃沈された。機雷敷設潜水艦伊122号もこれに含まれる。わが機雷による戦果は潜水艦6隻である由。代表的な繋維機雷である6号3型の概念図は下図のとおりである。

繋維機雷敷設数 繋維機雷概念図

 これらの繋維機雷の掃海には、海防艦のほか米海軍の開発した装置が使用された。昭和22年までには掃海が完了したが、その間、海防艦大東の触雷沈没をはじめ幾つかの事故があった。(以上の記述は主として、航路啓開史編纂会編、国書刊行会刊 『日本の掃海』 によった)。

繋維機雷の掃海       近藤禎介
 昭和20年11月30日付で充員召集を受けた。佐世保鎮守府に出頭したところすでに、第11掃海隊(海防艦10隻で編成)所属の海防艦第26号乗組が発令されていた。爾後、昭和27年2月まで、各種掃海、航路啓開に従事した。

 第一掃海隊は対馬海峡の日本海軍の敷設した繋維機雷の掃海に従事していた。壱岐島側から日本の対艦式掃海具で掃海中、海防艦「大東」が触雷沈没した。そのため急遽、米海軍単艦式掃海具(Oタイプ)を装備することとなった。海防艦26号はその一号艦として就役することになった。昭和20年12月20日頃から、海防艦「志賀」、同22号、同40号の4隻で、対馬側から掃海を再開した。4隻で梯陣を組み、その後方には米海軍航洋掃海艇が続行して、設標および銃撃処分に当たった。対馬海峡は日本海軍の敷設した最後の機雷堰であり、流失しているものも少なく、掃海具の性能もよく、一航過で6ないし7個を切断し、これが浮遊状態になっていた。

 3航過目に入ったところで、設標艇が浮流機雷を避けきれず、艇尾で触雷し、船体は二つに折れ、艇尾はすぐに沈没した。しばらくして水中爆発を起し、犠牲者を増す結果となった。掃海は中断され、翌年正月から9隻が五島の青方湾に集結し、米海軍の指導を受け訓練に従事した。海防艦26号は同40号と共に試航筏(YCクラフト)隊に編成替えされたため青方湾を離れた。第一掃海隊にはクラスのものも多数乗艦していた。


感応機雷の掃海
 戦争の末期、米軍は重爆撃機B29によってわが国の主要港湾、海峡に1万個以上の各種機雷を投下した。機雷投下の目的はわが国の海上交通を麻痺させて戦争継続を困難にするためであった。その目的は十分に達成されたといえよう。人的被害の大きかった主な触雷事故をあげると次のとおりである。
室戸丸(1257トン):
昭和20年(1945)10月7日、関西汽船の客船室戸丸は大阪港外にて触雷沈没して336名の死者を出した。
女王丸(401トン);
昭和23年1月28日、同じく関西汽船所属の客船女王丸は岡山県牛窓港外において触雷沈没して193名の死者を出した。
 一刻も早くこれらの機雷を掃海して海上交通の安全を確保することはわが国の戦後復興の前提条件であった。とくに米軍が重視した 下関海峡及びその周辺に撒かれた磁気機雷は4696個とされる。下図左はその撒布状況を示し、下図右はその機雷によって触雷沈没した船の状況を示す。これによれば231隻、30万トン以上の船舶が犠牲になっている。


(上の2枚の図は国書刊行会発行、航路啓開史編纂会編『日本の掃海』による。)

 磁気機雷の掃海には2隻ないし3隻の掃海艇が強力な磁場を作り出す電纜を引っ張って危険水域を何回か往復して行う。この磁気機雷には回数起爆装置が付いている。設定回数は9回であるから、機雷の鎮座している上をこの電纜を引っ張って最低9回通過しなければならない。具体的な掃海方法は下図(『日本の掃海』から)のとおりである。しかしこの方法で掃海を終わってもそれで安全が確保されたとはいえない。掃海の終わった航路を、船体に電纜を捲いて強磁界にした大型の貨物船を走らせて見る。これを試航船といった。掃海の終わった航路をこの試航船が9往復して無事であったときに初めて海上保安庁から航路安全のお墨付きが出された。試航船は体のいい人間モルモットといったところであった。


 磁気機雷の掃海に使われた掃海艇には哨戒特務艇(230トン)と駆潜特務艇(130トン)の2種類があっていずれも木造船である。しかしエンジンは鋼製であるから海底の磁気機雷が電纜の磁場でなくエンジンの磁場に感応して爆発することもある。又掃海航路の端で回頭するときには隊形が乱れて掃海艇が電纜に近づくことがある。そのときに機雷が爆発すると掃海艇が被害を受ける。事実、10隻の掃海艇が触雷沈没してそのたびに乗組員に犠牲者が出た。鈴木総兵衛著『聞書・海上自衛隊史話』によると終戦から昭和27年までの掃海要員の死者は77名に上った。文字通り板子1枚下は地獄の危険な仕事であった。  これらの掃海艇の艇長の多くは海軍兵学校でわがクラスメイトや前後のクラスの連中であった。

 厳しい戦争の時代を辛うじて生き残りながら,戦後の平和な日本で、命を掛けて働かねばならなかった彼らの苦衷は決して忘れられてはならない。また、これらの掃海艇の掃海した海面では、その後1隻の触雷事故もなかったことを特記しておかねばならない。

当時の掃海艇(駆潜特務艇)
 基準排水量:130トン 全長:29メートル 幅:5.68メートル 吃水:1.75メートル  主機:ディーゼル1機 馬力:400HP 速力:10ノット
 この木造の駆潜特務艇は戦争中200隻建造された。名称が示すように局地用駆潜艇として計画され太平洋全域で活躍した。戦争中の喪失数は81隻に上る。戦後はこれを機雷の掃海に用いた。右の写真の艇のファンネルマークは海上保安庁のものになっている。これはこの写真を写した当時、掃海業務が海上保安庁に属していたことを示す。


現代の掃海艇

 基準排水量:510トン 全長:54メートル 幅:9.4メートル 吃水:3.0メートル 主機:ディーゼル2基・2軸 出力:1800馬力 速力:14ノット
 当時の掃海艇とは比べ物にならない大型航洋艇である。船体は合板木造、機関には非磁性鋼材が使われているので磁気機雷に対する安全性は格段に向上している。それにしても、平成3年(1991)の湾岸戦争時にはこの艇で東支那海、南支那海、インド洋を越えてペルシャ湾まで掃海に出かけたのだ。乗組員の苦労は並大抵のものではなかったろう。


掃海の思い出     赤司義次
 戦時中、米軍が投下した磁気機雷、水圧機雷を処理するため、特別の鉄製の曳航用浮船(約7000トン)を佐世保船舶工業(株)で建造した。これで下関沖日本海側を掃海したのは、昭和21年から22年にかけてであった。海防艦102号(宇都宮艦長69期)の航海士として、佐世保で米海軍スターク・ウエザー中佐監督指導の下、曳航訓練を重ねた。何度も失敗を重ねた後、佐世保から下関北方の吉見に回航し、ここを基地として掃海作業に従事した。

 浮船の曳航は曳航ケーブル(直径約7センチのワイヤー)の取り付けだけでも大作業で、悪戦苦闘した。何回か航路啓開の掃海作業をしたが、曳航速力は4ノット、午前10時頃から午後4時頃まで緊張の連続であった。一日が非常に長い感じがして、神経的に疲れた。間もなく、復員輸送のため海防艦142号に転勤となり、成果を上げることなく掃海作業から離れたのは残念であった。後に鹿児島碇泊中、2ヶ月遅れの掃海危険手当が支給された。約200円もの思わぬ金を手にし、拾い物でもしたような気になって、上陸散財した。

 吉見基地での休日には、近くの川棚温泉へ日帰りで入湯に行った。米や酒持参で国鉄の駅からかなり歩いて旅館に到着し、ゆっくり風呂に入ってくつろいだのも懐かしい思い出である。


平和の時代の活動

海上自衛隊

 海上自衛隊に勤務したわが74期のクラスメイトは総勢131名であった。旧海軍出身のクラスの中では最も人数が多く、海上自衛隊を支える一大勢力であった。

 海上自衛隊の前身、海上警備隊は、米国からPF(Patrol Frigate) 18隻とLSSL(Landing Ship Support Large) 50隻の貸与を受けて発足することになった。昭和27年(1952)5月に最初のPF2隻とLSSL1隻が引き渡された。これらの貸与艦艇には、海上保安庁に勤務していたクラスメイト3名が乗り組みとなった。以後、貸与艦艇が逐次引き渡され、わがクラスメイトはPFの分隊士や甲板士官、LSSLの砲術長や船務長として乗り組みとなった。

 昭和29年(1954)7月に海上自衛隊が発足した。一般公募や警察予備隊から転官した者を加え、クラスメイトは逐次増加した。



 昭和30年代のクラスメイトの配置は、艦艇の分野では護衛艦の科長、駆潜艇や掃海艇の艇長等であった。アメリカ本土で貸与される駆逐艦や潜水艦の回航員として渡米したり、米国の術科学校に留学する者もいた。また航空の分野でも、対潜哨戒機のパイロットや偵察員として渡米し、講習を受ける者もいた。

 防衛大学校が昭和28年(1953)4月に開校し、陸海空自衛隊幹部を一校で養成することになった。ここにわがクラスメイト数名が指導教官として派遣され、創設期の大学校の基礎の確立に寄与した。

防衛大学校本館正面


 昭和40年代に入り、わがクラスメイトは海上自衛隊の中堅幹部として活躍した。中央においては、防衛力整備計画の策定作業に参画した。部隊においては、隊司令、艦長、航空隊司令および各種学校の教官として勤務した。艦艇航空の技術の方面を担当する者もいた。

 昭和50年代に入り、定年退職を迎える者もいたが、多くのクラスメイトは階級が進み、中央の部長や部隊の群司令に就任した。練習艦隊司令官には二代にわたってわがクラスメイトが就任し、初任幹部の育成に成果を上げた。

 昭和50年代後半には、海上自衛隊の部隊最高指揮官である自衛艦隊司令官や地方総監および各種学校長などの要職に就任し、海軍のよき伝統を踏まえた精強な海上自衛隊の育成に寄与した。

 昭和59年(1984)1月に最後のクラスメイトが退官し、わがクラスの海上自衛隊における歴史を閉じた。この間、4名のクラスメイトが死亡した。志なかばでの死亡で、本人は無念だったろうと推測する。ご冥福を祈る。

(穂積セ彦記)




陸上自衛隊

発煙弾射撃、機動打撃発令
 大東亜戦争終戦時、海軍少尉に任官していた海兵74期生が、戦後、陸上自衛隊の幹部となっていたことを不思議に思う人が多い。世界中の軍隊で、海軍兵学校を卒業した者が陸軍士官になっている例は、皆無なので当然のことである。

 昭和25年、朝鮮戦争が勃発するや、マッカーサーの日本占領軍司令部は、日本政府に対し、75000人の警察予備隊を編成組織するよう命じた。その時はあくまで、陸上の予備兵力のみであった。翌昭和26年、海軍兵学校74期生(海軍少尉)と陸軍士官学校58期生(陸軍少尉)が公職追放令を解除された。同年6月、われわれは警察予備隊の中核の初級幹部として入隊するよう、勧誘を受けたのであった。

 日本の再軍備については憲法の制約があった。当時の吉田首相も、日本の復興が第一で、米国の言うがままに、多大の予算を要する再軍備をする気は毛頭なかった。したがって、海軍ができることなど考えられない時代であった。

装甲機動車より下車突撃
 また戦時中のことだが、74期生が中学生の頃は、中学校(現高等学校)に陸軍から配属された将校がいた。中学生に、陸軍兵士として基礎的な小隊訓練程度の教練を課していたのである。旧海軍にも陸戦隊があり、海軍兵学校においても陸戦訓練は必須科目であった。その上、航空志望生徒(全74期生1024名のうちの約3分の2)の約半数が卒業後、霞ヶ浦航空隊の訓練に行けず、そのほとんどが横須賀海軍砲術学校配属となった。対空射撃や陸戦訓練を叩き込まれたのであった。これらの条件が相俟って、警察予備隊入隊の勧誘を受け入れる素地があったと思われる。そして、わがクラスの約80名の意気盛んな若者が入隊した。

 その後約1年余りして海上警備隊が発足し、また昭和29年に自衛隊となり、航空自衛隊も発足した。そこで陸上自衛隊の74期生のうち約20名弱が、それぞれの特技に応じて、海、空、へ転官して行った。また、陸上自衛隊勤務が肌に合わず、民間企業に転職した者も数名居り、定年まで残ったものは52名であった。

 陸上自衛隊には旧陸軍と同じく職種があり、52名(海軍機関学校、海軍経理学校の同期生を含む)の半分弱の20名が特科のうちの高射特科(旧軍の砲兵)に行った。旧海軍時代の横須賀砲術学校の特技が反映されたものと思う。その他ほとんどの職種にも、特技に応じて配置された。特に多かった職種は普通科(歩兵)6名、施設科(工兵)5名、航空科5名、武器科(機械・整備)9名などであった。それぞれの職種に行った同期生は、「陸(おか)に上がった河童」とは思えない活躍をし、立派な功績を残している。

 定年まで陸上自衛隊で頑張った者のなかには、最高位の陸将まで昇進した者7名、陸将補8名がいる。 また勤務した職務は、方面総監、師団長、副師団長、防衛大学校監事(自衛官の副校長)、学校長、補給処長、技術開発官、外国での防衛駐在官、地方連絡部長(現地方協力本部長)および連隊長など、ほとんどあらゆる重要な分野に及んだ。それぞれの分野で遺憾なく実力を発揮して、今日の陸上自衛隊の育成、精強化に多大の貢献をした。

 今日、海外派遣や災害派遣などにおいて陸上自衛隊の活躍が、世界各国ならびに国内からも賞賛されているのは、まことに喜ばしい限りである。(林栄一郎記)

航空自衛隊

 航空自衛隊は昭和29年7月1日、旧陸海軍の航空関係者が一体となって発足した。74期は合計22名が航空自衛隊幹部となった。途中2名のパイロットが殉職、1名が病気死亡、1名は早々に退職した。

 航空自衛隊創設初期に、わがクラスメイトはパイロット、要撃管制官、通電、整備およびナイキ部隊要員として、大いに活躍した。パイロットは、新人養成コースの第1期、第2期の学生となり、新人では始めてのF86F戦闘機パイロットとなった。他の部門では、設立準備基幹要員となり、米軍学校に派遣留学した。彼らは帰国すると早速教官として、学校教育の拡充に奔走した。

 部隊編成も逐次整い、米軍に替わって、航空自衛隊がわが国の防空任務を担当できるようになった。さらに、バッジシステム、ナイキミサイル、F104J、F4EJの設備改変などの機能充実が進んでいった。昭和50年頃からクラスメイトの定年退職が始まり、昭和57年はじめにはすべてのクラスメイトが航空自衛隊を離れていった。

 この間、吉田誠一、加藤松夫がF86Fジェット戦闘機訓練中、殉職した。金井昇は病没した。

F86F戦闘機の編隊飛行


 吉田誠一は新人パイロット養成コース第1期生として卒業し、浜松飛行隊F86F教官として、将来を嘱望されていたパイロットだった。昭和32年11月11日、築城基地から浜松基地へ、F86F4機編隊飛行中、高松上空で突然燃料が途絶し、塩田跡に不時着死亡した。

ブルーインパルスの曲技飛行


 加藤松夫は吉田に次いで、新人養成コース第2期生となった。卒業後はF86F戦闘機教官となった。優秀な技量を買われて、ブルーインパルス曲技飛行の編隊長に予定され、その訓練中、昭和36年7月21日、愛知県伊良湖岬沖の海面に激突、死亡した。順調に進めば、航空自衛隊の花形、ブルーインパルスの曲技飛行を各地で展示披露したであろうと残念に思われる。

 金井昇は要撃管制官として、僻地のレーダー基地で長く勤務した。その後中央で幕僚勤務中、昭和46年2月28日、帰宅した玄関先で倒れ不帰の客となった。おそらく過労のためと思われる。いずれもクラス先任の優秀な人材だっただけに、惜しみても余りある悲しい思い出である。謹んで冥福を祈り、先人の功績を讃えたい。(池 徳記)

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